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スローペースで、二人で出来る事を模索しながら。二本松、競馬、などなど。

4月30日

平成最後の日という事で、少しソワソワしてしまう。世の中が明日から劇的に変わるというわけではないけれど、『雰囲気を改めよう』という気持ちになるかも知れない。



半分くらいは趣味が『勉強』になってきていて、心境が変わってくると学ぼうと思う事も変わってくる。今日みたいに「情報」が同じテーマに偏ってくると自然と「知りたい」と思っていることが顕在化してくるような感じもある。



上手くは言えないが、その興味から行きついた所で何かを得て作品にしていけたらいいのかなと思う。それにしてもヒシヒシと感じるのは『過多』というか世の中にある作品の膨大さである。最近は漫画をあまり読まなくなっているけれど手塚治虫の作品は読みたいなと思い始めていて、だけど何から読めばいいのかという悩みも出てくる。



平成という時代も終わって平成も過去になるのだから、と思うと昭和の捉え方も少し変ってくる。この時代を客観的に捉え直して評価するようになる場合に、何が浮かび上がってくるのか。
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緑の地平

何かに導かれる そんな心地さえする

案外デタラメは無くて こう感じるのも必然だとしたら

これまでと思っても その度に見つかって

広がる緑の地平は心を潤す


大丈夫だよと思うほど集まった光


もう少し夢を見ていよう

形式的な

ちょっとしたトラブルで始まった一日。ただ、思いの外都合のよい事もあり寧ろ運が良かったんじゃないかと感じた部分もある。それ以外は何かに追われているという事がなく、ちょっと思い出に浸ったりしているうちに発見があって創作活動の方で良い影響がありそう。


連休中に友人に会える機会があるのかは分からないけれど、マイペースでやれる事を探しているうちに時間が過ぎてゆきそう。明日は平成最後の天皇賞で、面白いレースになるんじゃないかという予感がある。


『期待』というのは形式的なものとして実感がなくても存在する場合があると思う。まだ先の話になると、それがほぼ確実に実現すると思う部分があっても確実ではないし、そもそも具体的にどういう風に実現するのかイメージするのは難しい。形式的な期待と、形式的な振舞いというのは結びついていて、「こうした方が良い」という判断の集まりもその結果の具体性に欠けている場合には続けてゆくのは難しくなる。



『活動』の先に見えているものも時として「形式的な期待」としてしか捉えられていない場合もある。いつか実感された何かを上手に取り戻せるなら…遠回りしてでも取り戻せるなら、熱い気持ちは蘇ってくる。



「自分を何処かに連れてゆく」ような何かを作れるなら、それも一つの「自己愛」のカタチで、形式的な期待に実現するイメージや雰囲気を与える。それ自体が裏技のようですらある。


また地平に。

どこまでの事

晴れやかな気持ちには大して言葉は要らない。音をかき鳴らす事が上機嫌の証だというのなら、そのままそんな感じ。連休で世の中はどういう風に動いてゆくのか、それとも本当にオフモードになるのかは分からないものの、何であれバタバタする必要もないんだろうなと思っている。


100均のまねき猫のオブジェが規則正しくリズムを刻んでいる。


課題がないわけではない。やるべき事はあるし、リスクだって存在していると思われる。ただシンプルに考えてゆくと、とても難しいことを何とかしてしまっている現在で自然と挑戦する方に傾きだしているというのが全てを語っていると思う。



どこまでの事が出来るだろう。

4月25日

何をしようかと思っているところ。一つ一つの事を意味づけてゆく事は大事で、自分がやりたいと思っている事も色んなバックグラウンドがあってそうしたいと思っている場合もある。


猫と戯れながら、コミュニケーションのようなものを取りながら、さっき割と大事なことに気付いたよなと振り返る。


今考えている事に大して中身があるわけではない。でもそれでいいやと思えるような事があったのも確かで、それだけは覚えておきたい。


そして猫にせかされつつ、過ごす。

モノローグに

相対的な事ではあるが前よりも実感されている事があって、「迷い」が少なくなってきたように感じられる。この世相で「活路」になるのはどう考えてみても『常に学ぶこと』と、『地平』の方向に動いてゆく事だろうなと思えてならない。


「社会的」というよりも個人的な事で、一方でそのモノローグが求められているような感覚さえある。



新緑の季節の方が好きなのかもなと最近では思う。



ぼちぼちと勉強を始め『薬膳』だとか『歴史』だとか、大分古典的なものに惹かれているのを意識している。今を生き抜いてゆく上で「THE YELLOW MONKEY」がアルバムを出したのは自分にとっては僥倖なんだろうと思うし、車の中で聴く「この恋のかけら」は穏やかさの一方で突き抜けてゆくような心地よさがあるし、停滞していた何かに方向性が生まれたような感覚さえある。



『地平』のその向こうに何かがある、と少し思えたのも心強い。モノローグが色を伴うようなそんなイメージを

部屋一杯に

「地味な揺れ動き」と言えばそうなのかも知れない。自らを青年と呼ぶには歳を取り過ぎていて、かと言って擦れてしまう事への惜しさもある。若さにしがみつくとも違う、それこそ単なる「揺れ動き」なのだろう。


淡く期待している心を不似合いなものだと思う、しかもそれは冷笑ではなく、実に現実的な理由から至極真っ当な捉え方であると思うような、そんな見方。でも実際、こんな内省ですら必要ではない様々な要望、その類。



午前とは打って変わって曇りだした空に同期するように、憂鬱の陰を強めようとでもしているかのような知らせ。こんなことは頻繁に繰り返されているけれど、イマイチ慣れない自分が居る。狭い世間と、広がり過ぎた実感に乏しいネットワークは既に己を規定しているのかも知れない。時々、そこに逆らうように、少なくともそれだけではないと誇示するように、「地平」に行ってみる。



気持ちで行ける「地平」は何のことは無い、少しだけ広く遠く動いてみる事で自分で何かを見つけに行こうとした所、それである。そんな事を言ってみたところで決定的に何かを変えるような何かがそこにあるのかというと、期待していない。けれどそんな自分のままだとは思えない時もある。



仕事帰り、少しだけ回り道をするつもりでコンビニに寄る。最近欠かせないアイテムになっている大型のミントのタブレットに新しいフレーバーが加わっているのを確認して、<グレープか…>と思いつつも一つ手に取る。適当なおつまみと酒も一緒に買って外に出た時に、こんなものかなと思いつつも念のため辺りを見渡す。



変わらない光景、中高時代から基本は変わらないと言えば変わらない印象。そう改めて意識したときにふと、当時はあのカラオケに友人とよく行っていたなと思い出す。都合の良い所にあるカラオケ店は名前は変わっているが、やはり基本は変わらないようでちょっとした郷愁のようなものさえ感じさせる。



今でも歌おうと思った時には行っていると思う。でも割合そういう気分じゃないのに行ったところで不完全燃焼になってしまいそうな気がする。そんな事を考えながら小さなポリ袋の中からタブレットを取り出し、味見のつもりで一粒口の中に放り込む。


「あ…めっちゃグレープだ」



予想ではミントの味が強く甘さ控えめのタブレットなのかなと思っていたが、ガムのような甘さが口一杯に広がり、その主張の強い風味に妙な『若さ』を思い出してしまう。



「甘酸っぱさ」



渋い顔をするわけではないものの、どこか困った気持ちになってしまう。そして自分でも意外な『流れ』が出てきてしまい、今ゆるやかにカラオケ店に向かってしまっている。




それは『仕方ないよな』という感情である。と同時に一つの諦めである。たぶん世の中には忘れているだけで今も存在しているものがあって、『それ』は歳だとか若さだとか、そういうものを十分考慮した上でも尚働きかけてくる、働きかけているかのように見える何かで、本当はそれに巻き込まれてたがっている自分がいて、乾いたモノローグなんてのはそこに至るまでの言い訳のようなものに過ぎないのだ。



『僕』は明日職場で言うだろう。


『昨日突然歌いたくなって、夜カラオケに行ったんですよ!一人で!』


「己」という物体は間違いなく『僕』が動かしている。


<その重さも、鈍さも、固さも全部引き受けて、この夜の疲労さえ「お前」の記憶に>


そんな想いを個室に充満させよう、と思ったのだった。

4月16日

自分の中で「情報が大事だ」という考えが段々と強まってきている。テンションと肯定的な捉え方、能動的に考えてゆく事と合わせて、ある日ある時の自分が自信をもって


「こうだ!」


と言い切れるような心境である事が後で振り返ると頼もしい。能動的に考えてゆく場合には、当然の事ながらそういう風に続けることで精神的な疲労も考慮しなければならない。



ある種の賭けのようなもので「何か良いことがすぐ後に起こる」と判断してしまって見切り発車のような形で少し大変な作業をする場合に、上手く望んだとおりの事が起これば明らかにそれは『自明』な展開ではなくなる。予想と予測の合理性を確かめている意識にとってさえ、そう判断するのは『賭け』であることには違いない。ここで情報が重要になるのは当然とも言えて、出来るかぎり「良いこと」があるという情報を知っておきたいと思う。




色々な情報を総合的に考えての判断というか、予感で、『情報の正確性』のいかんで振り回されないようにすると安らかな時間も増えるのかなと思う。

不思議な自発

「気持ちが乗ったら〇〇をしよう」という『条件付き』の意志があったとする。例えば気持ちが乗ったら作品を書いてみよう、とか何処かに出掛けようとか。


その「気持ちが乗る」という現象は確率的なものだと思うし、「おあつらえ向き」に「ここだ!」とか「今だ!」とか思えるような外的状況とか、自分の状態の複雑な関係があると思う。「運命」を感じるような、あたかも「ここでこうする!」という風に方向づけられているような感覚は時々あるが、常にではない。


そこに例えば『サイコロを10個振って8個以上ゾロ目になったらテンションは上がるな』、とか、ランダムな何かである事が続いたら意味深だと思うかもなとか、そういう主観的にそう感じても仕方のないという事を加味する(ちょっと自分の特殊性に関係する)。


今の心境的には気持ちが乗ったら作品を作ってみようという感覚なのは間違いない。気持ちが乗りやすいような状況、状態、環境に身を置くとして最終的には『ランダム』(或いは学習機能のある『シャッフル』)なものが確率的に意味深さを感じさせるくらいに起こるとするなら、「今やるべきだな」と思えるだろう。


流れてくる情報によっても場合によってはそういう気分になるかも知れないけれど、どうせならそういう広い意味で『自発的』な事も活かしてみるのが良いのかもと思う。でスマホにはただ複数のサイコロを振れるアプリがインストールされていたり、『確率』的な事を確かめられるようにしてある。で厳密にいえばそのアプリは自然界の確率とは違う確率だと思われるし、そういう意識にとっては運命感は割とシビアに割り引かれるんだろうなと判断できる。



それでもサイコロを準備する「手間」、振って集める「労力」の計算で、言わば僅かに動くだけの指先から身体を動かせるとしたら最終的にはこういう理屈になるのだろうと思う。



こういう風に始まる行動は意外と不思議だろう。

「なるべく」

「なるべくそうしよう」、という全般的な方針にしようと思った。



長い目線で「最善を尽くす」という方針を続けてたどり着けるところまでは辿り着けたかなと思った。衰えというか、「若さ」で行けるところからの切り替えが必要だと思うし、「なるべく」と心掛ける事も長期的な視点で見れば良いんじゃないかという発想もある。


まずはそんなところ。

4月3日

心というか、気持ちが俄かに動いている。春というのは不思議な季節で「また」始めたくなるのも自然というような流れ、感じで何かに惹かれてゆく。目の前にあるもの、目の前で起こっている事、それが全てではないけれど自分という人間がよく分かるようなそんな場面が、身近でありそうだなと思えているからだろうか。


愚かさにも似た、素直さで、けれどそれは生きてゆくうえでの逞しさとも言えて、こんな心境も誰かが曲にもしていたのだと思い出す。

4月

新時代という言葉が具体的に思われてくる日。改元という社会的、人為的な事でどこまで日々が変わってくるかというのは興味深いところではある。


一方で自分のこれからについて考えるべき事は多く、『活動』もそういった総合的な事との関係で生まれてきそうだなという予感がある。身体の事があって仕事を辞めて、職探しの段階になっているがその間も日々学んでゆく必要があるし、学べる事を探すのも一つの努力である。



活動の「地平」はその都度見つかる。今のキーワードとしては「丁寧に」という事が浮かんでくる。そう心掛けて行けば何かが見えてくる、そんな風に感じている。
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二人の管理人

Author:二人の管理人
ブログには珍しく二人の管理人で更新してゆくブログです。

二本松のこと、競馬のこと、これから手探りで何かを
やってゆこうと思っています。




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