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スローペースで、二人で出来る事を模索しながら。二本松、競馬、などなど。

終了

何度かこのブログで同じ展開になっているけれど、やはり行き着くところまで行き着いたらしく、「独り言」での報告は終了という事にする。
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3月8日

どういう状態であっても最善を追求してきたものであるなら、という観念はある。作品にしてきたものについては「評価出来ている」ような心境だと自分にとってはどうも効果があるというか、狙った通りのものになっていると感じられる。


それでも常に「今」出来る事が浮かんでくるし、事情が分かっている自分(達)だけじゃなくて客観的に良いものに向けて努力してゆく事は出来る。


どちらかというと今は試行錯誤の段階に感じられる。留まっている所でプラスアルファーを狙うのが最善だと思うし、そうする意義も感じている。


自分のイメージに

早朝、ブログを更新した時に『流れの必然性』という言葉が浮かんだ。
説明が難しい事だが早朝目覚めて、ネットが出来るとしても利用する
多くの人が基本的には眠っていて得られる情報、そしてそこを『観測
する』上で味わう「流れ」というのは日中のそれとも、休日のそれと
も違っているというのはどう考えても明らかだろう。


早朝という『時間的』な必然、「他の人も利用していないだろうから自
分も利用しない」という論理が連鎖する必然ともいうべき結果が、その
独特の


「まあいいか」


という感覚を作り上げている。ツイッターのようなリアルタイムの情報
源は特にその傾向は強い。そこで期待できる『流れ』、『目覚め』に繋
がる情報の多少、こういうのは意識はしていないけれど既に自分の中に
出来上がっているし実際に確認すると「まあいいか」になってゆく。



考えてもみればそれと同じことがテレビにも、場合によってはブログに
も生じている。『テレビ』を流しっぱなしにした場合の『平均』の、ク
オリティーなり趣味に合う率は、自分の気分にとってある種の必然とい
うか「傾向」を生じさせ得るだろう。タイミングがそういうものに関わ
っているとして、こういう『流れの必然性』に対して自分が望む流れを
自分に与えるにはどうすればいいか、という事が大事だろうなと思うの
だ。



実際、それは『創造』するものだと思う。そして録音のように「デジタ
ル」で再現可能だからこそ理屈として可能と考えられる『精度』と『レ
ベル』の流れがあって、次第にスムーズにしてゆけるのだろうと考えら
れる。



ただ理論はそうであっても実際に何かを「創る」となる場合、これ以上
考えてどうこうではない。「自分のイメージに集中できる時間」を大事に
してゆくべきだなと思う。

君なら

どうにもすっきりしない気分は自分のものなのかという奇妙な考えが昼過ぎに浮かんできた。春を待つ世界に滴り落ちる雨は妙に躊躇いがちで、「ちょっと降らしますけど、いいんですかね?」と確認しながら誰かが落しているようでもあり、全く例年通りのペースでやってきているようでもあり。春になるとスギ花粉で憂鬱になるであろう多くの人の悩みが透けて見えるような職場でもあり。


すっきりしない気分でテレビを見ていると何だか無理やりテンションを上げているかのようなトーンの声や、楽しいと思おうとしているという様子に見えてくるから困る。自分の気分や気持ち次第で見え方が違うとは言っても、昼間の賑やかな出演者の心の中にも多分晴れない気持ちがあるんだろうなと思うと、何だか素直に考えられなくなる。



とはいえ自分勝手とは違う意味で『自分』を中心にして、自分が動いてゆく事で充実感を得るようにすればこんな悩みは悩みとは言えなくなる。時々友人に会って、飲んで、やっぱり同じことを感じているんだなと思えればまた気持ちを新たに出来そうなモヤモヤは、自分の単純さを示しているのかも知れない。



「何処かに行こうか」


言葉にする事で例えばそれはちょっとした挑戦のような響きを持つ。いつだか夜寝落ちする直前頭の中に、


『大丈夫だよ、君なら』


という誰かの声が聴こえたのを思い出す。ネットで調べてみるとそういう事はありふれた現象で特に何でもないらしく、自分もそんなもんだと思ってるし特別視するわけでもない。けれど、自分が持っていた不安のいくらかがそれが聴こえたその後は何となくだが和らいでいる。



『誰かの声』とは言ったけれどそれが女性声優のような心地の良い声だったのは何というか自分らしさだなと思う。自分は知らず知らずに誰かに支えられていて、この世界にいる誰かの想いが自分に届いたのだとロマンチックに解釈したってバチは当たらないと思う。この頃はそれが自分の逞しさだとも思える。



何処かに行くことを決めて、よりにもよって雨の日にそう決めて、何処に行くというのだろう。玄関に出て外の情景を少し眺めて、消去法で書店に向かう事に決める。車だと15分くらいの場所にある、行き慣れた書店。そこにはちょっとした思い出もある。



あれは高校の頃だったろうか。電車通学をしていた自分が帰宅時にわざわざその駅で降りて徒歩でその書店に足繁く通った事を思い出す。何故そこなのかと言うと気恥ずかしいけれど要するに、その書店の定員さんが可愛いなと思ったからでただ普通に接客してもらっているだけだったけれど、例えば小説などを選ぶ時に、いかにも文科系のその人が気になりそうなタイトルの本を選んで持っていったり、今となっては煮え切らない自分らしいやり方だなと思う。いつの間にかその店員さんは居なくなり、まあ多分転職したのだろうけれど、今でも何かあればその書店を選ぶような具合である。



それからもその書店で『本』との出会いがあった。迷った時に偶然目にしたタイトルが結構良い感じに自分に響いてきて、心を軽くしてもらったようにも感じられた。




喫茶店とセットになったその書店は今日も清涼剤のように店の中を歩くだけで何かを思い出させてくれている。自分だけでは十分に自分を動かしてゆけない。けれど自分の心が選ぶ書物に触れさせれば、自分の心は反応してゆくし、それを記した人の心にも触れることが出来るような気がする。



前から気になっていた作家のデビュー作を棚に見つけ、言い訳のように実用書も一冊手に取ってカウンターに持ってゆく。ポイントカードを一番上に置いて財布に意識を向ける。そんな自分に、


「ありがとうございます」


という柔らかな声が届いた。何か不思議に思って顔を見上げると、女性の店員はにこやかに微笑んでいる。見慣れない店員さんだが、ここは頻繁に人が変わるのでそれは不思議でもないのだが、奇妙なほどにその声に惹きつけられる。


「あ…声優さんみたいな声ですね…」



あまりに驚いたから、と言い訳するしかないがその時の自分はバカげたことを口走ってしまったという後悔が体中を駆け巡る。店員さんは一瞬ドキッとしたような表情をして、


「あ…その…ありがとうございます。実は、ちょっと目指していて…」


と話しづらそうだったが「声優志望」という事を伝えてくれた。その時の自分は内心、「ひえぇぇぇ~」という状態であった。つまり自分で言っておいてどう処理したらいいのか分からなくなってしまっていた。とにかく会計を済ませねば、と思い。


「あ、なんか教えてもらってすいません…」


と頭を掻きながら告げた。「あ、はい」と店員さんは少し戸惑いながらも接客をしてくれる。会計が終わって帰り際、恋愛とかそういう事ではないけれどこういう状況で何もアクションが無いのも失礼だなと思って、


「その…私から言うのも変なんですけど、声優さんって声で人々を幸せにしてくれるんだなって、今実感しました」


「声で、幸せに…」


「なんか自分でもよく分からないことを言っているんですが、ありがとうございます」


「いえ、わたしもそう言ってもらえて嬉しかったです。頑張ってみようかなって…」


「じゃ、その…どうも」


こういう時に「応援してます」と軽々しく言えないくらいには、色んな情報から事情を推察してしまうところがあって、難儀だなと思った。それでも、


『大丈夫だよ、君なら』


といういつかの夜に自分に聴こえたのと同じような声が、彼女にも聴こえてくるのかもななんて思ったり。ちなみにその日買った小説のタイトルは、


『君なら大丈夫』


であったりする。

ぼんやり

漠然と感じる世界観。寝ぼけている頭だけれど、それなりに穏やかに見ている、こういう時の感覚というのは何なんだろうと思う。


これからがどうなるのか、全く読めないわけでもないけれど自分がこういう時間に書くことも含めて気紛れに動いて行く余地もあって、この感覚の先は何処かに繋がっているかも知れない。


「感覚で動いてゆく」という事はつまるところ感覚的なものを現実化している事だとも思われる。目が覚め切った時の関心事ではなく、この感覚でしようと思う事。


それを後で、ある瞬間の自分が見直してどう評価するか?


優先順位が「眠る事」にあるような、そういう価値観で、それは確かに常にではないけれど世の中の事よりもただ眠りたいと思うような条件はあって、そういう部分を揺り動かして何かを語る時、何かしらのアドバンテージを使っているのかも知れない。



今日も

希望という名のイメージに言葉を捧げる

ここで言える言葉がそれだと言うのなら

それに星を添える


温かいスープはどうだい?

たわいもないジョークはいかが?


何かあるかい?


選んでゆく 今日も


確かに 今日も

続けて行けるか

「『自分』を繰り返してゆく」という事に深みを見出している。一回一回と続けてゆく繰り返しは恐らくいつか「特殊な偏り」になってゆく。

どう足掻いても難しいことは難しい。一つの事というより、色んな事が関係しあう中で、何かを続けてゆくという事が段々と綱渡り的に見えてくる。

それでもどういう訳か前を向こうと思える事がタイミング良く起こる。多分、世界の「精一杯」がそういうタイミングでやってくるのだ、と感じる。やはり自分も「精一杯」をこのタイミングで発信する。もし自分がそういう連鎖の中で意味を成しているのだと言うのなら、自分の為にも「ここで」と思ってしまう。


それが「進む」という事になっているのかもと思う。

停滞から発展

「地平」と呼んでいたものが「意志の流れの停滞」であると理解した。意志の流れがそこで立ち止まってしまうような領域が地平であるなら、そこには「停滞」がある。


語るように意識で何かを捉え、言葉で記してゆく連続によって示される「位置」があるならば、意志の位置が「停滞」にあるという表現は確かに何らかの位置を示している。


そこからどうするのか?


というのが自然な発想だろう。一つの発展である。

身を委ねて

自分を鼓舞する一方で、上手く発散してゆく必要がある。発散はそもそも意志的なものではないけれど、だからと言って後で自分に跳ね返ってくる発散はしたくはない。


受動に身を任せてゆく場合にも、身を委ねていい、構わない状況や環境を構築しておいた方が良いと思うような人間である。


その場合に「自分を信頼して」という域まで到達出来るなら、と考える一方で「そんなに上手く行くものか?」と思ってしまっている。


巡り合わせというのはコントロールできない。自分で整えられる部分と、理屈として最善と思われる流れに身を委ねてみる。それは「信頼」だと思う。

繰り返し

どういう状況にあっても「よりよい」、「よりマシ」な方に動いてゆこ
うとするのは、特に何らかの意味で厳しい場合には前向きなのは確かだ
と思う。


言っている事は「繰り返し」でありながら、面している未知の状況はそ
れ以前には無い要素が加わっていているので、その方針を今回も繰り返
し適用する、適用する気になっているというのはそれ自体内容のある事
である。


「また今回も」


と自分を希望に向けて動かしてゆく、そして出来るだけ良いイメージを放
って行こうとするのは何だか自分との約束であるように思える。身体を動
かすのを制限されている状況だと書物で出来る勉強と研究に自然に向かえ
るようである。



ネットの情報ではなく、書籍の信頼性のある記述を実際に確認することで
開けてゆく事があるなとここ数日で感じ始めている。

この方向性

気持ちを切り替えて次の仕事を探し始める段階になっている。ブログとの向き合い方も変わっている中で、出来るだけ簡潔に述べて行こうと思う。


結構長い事メンタルの分析をしてきて、どういう状況でも気持ちが大事になっているという事に気付いている。結局今も自分を支えてくれる家族だったり、友人だったりがあって気持ちが保たれているけれど、自分自身を勇気付ける創作をするというのも目標ともなるし、実際にそれが作品としてあることによって違ってきている実感もある。


その方向性は同じでいいかなと思う。自分だから出来る事があるとすればそういう作品を作って行ける事だとも思う。

ブログ

Yahooのブログのサービス終了というニュースを昨日知って、密かに残しておいた過去のブログの処置を考えていた。結論としては自分用に保存作業はするけれど、移行とかはしないつもりだ。


ブログというものは将来にわたって残して行くのは難しいのだろうと思う。自分が生きている間はともかく、その後についてはサービスが続く保証もない。「残せる」という前提で意味を持つものと、あくまで「作業用のデータ」、今日明日とかに意味を持つような情報は価値が違っていて、固執する事なく、その状況と環境に合わせて自分のするべき事をしてゆくのが良いのだと思う。


更新を続けてゆく上で「必要事項の共有」としての意味合いが強くなってゆくと思う。


プロフィール

二人の管理人

Author:二人の管理人
ブログには珍しく二人の管理人で更新してゆくブログです。

二本松のこと、競馬のこと、これから手探りで何かを
やってゆこうと思っています。




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