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スローペースで、二人で出来る事を模索しながら。二本松、競馬、などなど。

二つの視点

福島県について語ると言っても、福島には問題が山積し過ぎていて
何から語ればいいのか分らないというのが正直なところである。


江戸時代から明治にかけての福島の歴史を少しばかり勉強したのだ
けれど福島というのはどうも『外れ籤』を引かされてばかりのような
県である印象が強い。繰り返すまでもなく大河ドラマで描かれて
いるように戊辰戦争の遺恨はあとあとまで残り、比較的均質に見える
日本という国がわりとそうでもない。こんな風に思うようになったのは
私の中では最近の事である。明治政府の行った事、それがなければ
今の日本はないし、それが無かったらなんていう「IF」は考えても
しょうがない。けれど、歴史を学んでゆくうちに覆い隠されている
ようにも見える陰の部分を考慮して考えなくては理解できないような
事もあるのではないかとさえ思えるようになる。



福島の人が積極的に情報を発信する。それはあれだけの経験をしたの
だから当然可能なわけで、今も県内に住む人ならば誰でも世の中の
理不尽な事について、何か言いたいと思っていると信じている。
情報は発信されているけれど、どこか諦めているような部分もあって
、十分に発信されているとは思えない。理解しようと思えば、
複雑な問題に分け入らなければならず、とても素人では語り切れない。
そういう事を知ってか知らずか、県内の書店には震災、原発関連の
書籍がコーナーまで作られて並んでいるように、専門家の真面目
なのか小遣い稼ぎなのかよく分からない大量の言論が異様な
スピードで刊行されている。県内のニュースをずっと見続けている
人にとってはもはや自明となってしまった事も、他県の人にとって
は専門的すぎるのだろう。ここには科学が必要なのだ。



科学的な言説をちゃんと受け入れれば、世に蔓延るデタラメや
無責任な発言はスルーして必要な議論を始める事が出来る。
繰り返すまでもない事をネットでも繰り返す必要が無い。
必然的に、素人が発信しなくても良いという結論も出るが、
だが、実際に生活している日々で感じる事は、何らかの
かたちで伝えていった方が良いとは思う。


もともと、福島というのは語る事がそれほど多くは無いのだ。
そこが取り上げられる。それは一種異様な事でもある。




翻って、二本松に目を向けてみる。「全体」を常に意識して
しまう場合に「福島」という括りは余りにも大き過ぎて、
非日常がそこに紛れ込んですらいるので、本当に同じ同じ
気持ちで語っていいのだろうか?と思えてくる。二本松
という自分たちが生活している空間は、別にいつも生活
しているところだから何を感じる事も無い。ここには
「日常」がある。「福島県」を語る事と、「二本松」
を語る事には明らかな視点の違いがある。前者が、日本
とか世界とか大きい事を意識せざるを得ない視点ならば
、二本松は余りにもローカルで、それこそ何でもいいから
話題があればいいのにと思えてしまうようなささやかな
視点である。この二つの視点が交差する。



二本松の事は二本松がどうにかする他ない。だが、福島
県としての問題も当然含んでいる。ついでに福島のこと
を語ろうなんてことは出来やしない。けれど、福島を
見た視点がないのであれば、それは全てを語ってはいない。
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結果

http://www.city.nihonmatsu.lg.jp/soshiki/49/20131126-1.html

結局見にはいかなかったのだが、第二回二本松市一周駅伝競走大会
の結果がWEBに出ていたのでちょっと書いてみる事にする。


何よりも『東和』の強さが目立つ。昔から『東和ロードレース』など
で信じられないほどきつい坂を登ってきた人達だからだろう、圧倒的
ともいうべき強さを見せつけている。後続に5分とか8分とか、どんだ
け層が厚いんだよ、と言いたくなる。


小規模な大会なのだけれど、いかにも「二本松らしい」結果になって
いて面白い。

近く

二本松の隣といえば本宮市とか大玉村、昔の感覚からすると安達方面はやはり
『安達』という感じがするが、とにかくその辺りが隣町という感じである。

これを書いているHは本宮、大玉の方が近い側にいるし、市内よりもそちらで
食料品を買ったりすることが多かったりする。ちょっとした書籍などを求めて
安達の方にも行くことがある。二本松を基準にすると本宮は小ざっぱりして
いる所で、交通の便が割と良い。大玉は村というだけあって、広大な面積
があるものの店は少ない。というより、殆ど…だからと言って本当に何にも
ないのかといえば、バイパスを通れば郡山方面にもすぐに行けそうなもの
だからあまり生活には困らないと思われる。とはいえ車は必需である。


基本的に二本松近辺は田舎なので、感覚的に2、3キロでも『近い』と思う
のでなければ生活できない。肝心なのは住宅が並んでいるけれど、買い物
をする商店街などあってないようなものなので、ヨークベニマルだとか
中型のスーパーに依存する生活になってしまう事だ。余所からここに
来たときに、最初は物を買うのに結構移動しなければならないのが大変だと
思っていたが、次第に慣れた。その感覚でいくと、隣の市に行って買い物
をするとかもあんまり抵抗が無くなる。最近はその度合いが強い。


本が好きな人間としては、専門的な本があまり売っていないのが悩み
どころである。インターネットで注文したりもするけれど、本屋で時間を
過ごすのが好きな自分としては、とにかく大型の書店があればいいな
と思ってしまう。チェーン展開しているTUTAYAでは、レンタルするのは
便利でも本当に欲しい物は買えない。最近ではゲームショップも少なく
なっていて、そもそもどんなゲームがあるのかすらよく分からなくなって
いる。



あと、大学に行っていた頃の生活と比べるとやはりコンビニが近くにあると
良いなと思ってしまう。明らかに雑誌とかを読む回数が減っている。

ジャパンカップ

ジャパンカップの結果はゴールドシップの惨敗が酷かった。
異様なスローペースは完全なる切れ味勝負の結末を予期させた
が、そのレースで前方に位置できないゴールドシップは
負けるしかなかったのだろう。ジェンティルドンナのような牝馬
がそういう展開では強い。


そのジェンティルドンナは有馬記念を回避するとのこと。なんとなく
中山を回避したような気がしてならない。年度代表馬が
何になるか分らない。

市長選

市民として一応触れておくべきだろうか。二本松の市長選。
結果は現職が敗れ、新野氏が当選。今ニュースでもやってい
るが、県内では現職が続けざまに負け続けている。

多分だが、市民が何かしらの変化を求めている事の現れ
なのではないだろうか。実際、目に余るほどの失政はなか
ったし、新市長に変わったところではっきりと変わるとは
思えない。要するに、市民の方にも意思があり、その
意思があるという事を為政者に示したいと思っているのでは
ないだろうか。

この町から

「何をしたらよいか?」と問うても、何が良いのかよく分からない。
人々はこの町で生活しているし、それぞれ自分のライフスタイルを
持って生きている。それぞれにとって良いものであれば、それでいい。


自分のブログの「私は私」という事を町に応用すれば、「この町はこの町」
でしかない。「この町」にとって、ひいては「この町」で生きる者に
とって良いものが何であるかを真剣に考えれば、何よりもまず「この町」
としての機能を充実させることであろうと思う。確かに郡山と福島の
間で、気軽にどちらでも移動できるような環境だが、「この町」自体で
何かするという事がないというのなら、昨日も県内のニュースでやって
いたように、二本松の空洞化が進むばかりである。この町はこの町でしか
ないが「この町」自体は変える事が出来る。


変えれるかどうかは別にしても、変える方向を、そしてその先にあるイメージ
を思い描く事は出来る。その際に必要なのは、ここに住んでいる人の
生活にとって必要なもの、便利であろうなとか、あったらいいものを
想像する事だ。市内に土地はあるのだから、ハコモノを少しくらい
増やしても良いとは思う。それよりもまず、図書館の充実だろうか。


無論、そういう事を考えるのは行政の仕事であり、選挙も近い事だし、
何らかの変化はあるかも知れない。市民として出来る事は確かにある。
ただ結局、市で起こる事に対して何か変化を与えるかどうかについては、
民間の力も必要になる。それだけではなく、何より市民のネットワーク
のようなものから始まる、ちょっとしたイベントなども必要なの
ではないだろうか。


もう少し、何か。例えば、この町「から」始められる事とか…

菊人形が終わると

今あるのは雑多な情報だ。今度行われる市長選の事はO君が
話した通り。そして菊人形は日曜で終わった。福島競馬も
先週で終わり。


一年を通してみると、このあとの一か月は特にイベントがない。
まあ雪も降るので冬はあまり活動したがらないのは確かだ。
だったらいっその事、冬は室内で出来る何かを考えてみた
方が良い。この地方の冬の風物詩というのをあまり聞いたこと
がない。二本松だけではないが、食卓には『イカ人参』が増え
てくる。


あとなんかあったっけ?という感じ。

最強牝馬

人間の世界は、日本について言えば男社会と良く言われる。確かにそう見る事で説明される世の中の事はある。ただそれは大まかに見た場合であって、実際上は女性も普通に社長さんをやっていたりして、特に野心が多いと言うわけではない私から見ると、とにかく何が何でもやろうと思えば、そしてその気持ちがずっと続けば能力のある人は何でも出来そうな社会なのではないかと思えてくる。


競馬の世界では時として恐ろしい女…「牝馬」も現れる。恐ろしいほど強い馬は、「牡馬」だけではない。実際、ハンデもあったかも知れないが今年の凱旋門賞を勝ったのは3歳という若い、ある意味『少女』と言っても良いような牝馬であり、異論はあるが日本で一番強いであろうと思っているオルフェ―ヴルに完勝とも言える差をつけている。世界の競馬でもそうなのだから日本の競馬でも怪物は存在した。その代表格と言っても良いウオッカや、今日そのあだ名のついた先輩の事を喋ろうと思っている「ブエナビスタ」がいる。


ブエナビスタの現役時代はとにかく安定していた。時に足元をすくわれた事もあるが、成績は『優等生』ともいうべきもので、何よりもその強さは圧倒的な『切れ味』にあった。『切れ味』というと刃物をイメージするかも知れないが、競馬においては最後の直線勝負における瞬発力の高さを意味していて、牝馬はそれに優れる場合が多いのだが、ブエナビスタはそれに加えて絶対的な能力の高さを有していた。普通に勝負した場合は一流の牡馬でも叶わない可能性がある。実際、天皇賞やジャパンカップでの強さは、「ああ、最強馬はブエナビスタなんだな」と思わせるものだった。


…と競馬の話をしているのであるが、肝心なのはこのニックネームを与えられた、というか私が勝手にあたえた「ブエナビスタ」先輩である。馬のブエナビスタを思わせるように、職場では絶対的な信頼を勝ち取っている彼女は、私に対しても手厳しい。


「○○君(私の名前)、これも頼むわね」

「は…はい」


取り仕切るのが上手い彼女はいわゆるチーフで、仕事を上手く分配して、確かに全体の様子がよく見えている人である。私が丁度一仕事終えたのを見計らって次の仕事に誘導する辺りは見え過ぎているのではないかとさえ思えてしまう。この前話した「アグネスフライト」君や「エアシャカール」君は憧れの先輩だと言うが、彼女の有能ぶりを見るとなかなか迂闊に声を掛けてはいけないように思えてしまう。有能な女性がみんなそうなのかは分からないが、とにかく表情がキリっとしていて男から見ていても格好良いと思う。これは酒の席の事である。


「ぶ…いや、あの先輩」


思わず「ブエナビスタ」先輩と言いそうになるのを堪えて、私は先輩に話しかける。


「なに?○○君」


「先輩は趣味とかってあるんですか?」


先輩は私生活もきっちりしてそうだなと思うが、逆にいうと趣味とかを楽しんでいるのがイメージできない。ちょっと気になったのである。


「あるわよ。勿論」


「どんなのですか?」


「最近はジョギングね。走るのもともと好きだから」


「むかし何かやってたんですか?」


「う~ん。学生時代はあんまりね。どちらかというと文化系だったし」


どうやらジョギングは本当に趣味らしい。ジョギングしているからか、スタイルが良いのでやっぱり格好良い。


「走るのですか…俺は走るの見るのは好きなんですけどね」


「マラソンとか?」


「まあ…マラソンのようなものでもありますね」


「ようなものって、他に何かあるっけ?」


「まあ、ありますよ」


競馬とは言えないのは、昔一度真面目な女の人に「競馬が趣味で」とか言ったら凄く引かれたのを思い出したからである。


「あ…そういえば…」


「え…分かったんですか?」


「多分だけど、○○君、お馬さん好きでしょ?」


「ど…どうしてそれを?」


馬で頭が一杯だが、その事はかなり入念に隠していたつもりだったから、どうやってそれを知ったのか、分らなくて私は焦り出した。


「『ステイゴールド』よ」


「え?」


「私、最初『ステイゴールド』って普通に英語の事だと思ってたんだけど、△△君(「エアシャカール」君)が『先輩からステイゴールドって馬の事教えてもらったんですよ』って話聞いたのよね」


「あ、そうだったっけ…」


流石に職場の事がよく分かっている人である。そして何より勘が鋭い…たったそれだけの情報から私の競馬好きを見破るとは、頭の「キレ」が「ブエナビスタ」のようである。「ブエナビスタ」先輩は続けていう。


「○○君。多分、競馬が好きな事を明かしたくなくって隠しているんだと思うけど、私は自分の趣味は堂々と語ればいいと思うわよ」


「でも前、競馬が好きって言ったら女の子に引かれちゃったんですよね…」


「そう言う人にはそういう風に言わせておけばいいのよ。っていうかね、私は競馬にあんまり抵抗ないの」


「どうしてですか?」


「実はね、私のお父さん、結構競馬好きだから。そして私はそんな父の事を同時に尊敬している。父はちゃんと自分で決めて競馬と付き合っているから、家族に迷惑なんてかけた事ないしむしろ、レースに一喜一憂している父は輝いているの。男の人って、そういうのが必要だと思うのよ。私は」


「!!!!!」


私は人知れず感動していた。ちょっとウルッときてもいた。一方で、私は馬のブエナビスタの父を思い出してちょっと笑い出しそうになっていた。『スペシャルウィーク』みたいな人なんだろうなとか想像しながら私は言う。


「先輩はブエナビスタみたいな人ですね」


先輩も一瞬何の事を言っているのか分からなくなったらしく、頭にはてなマークを浮かべたように、


「え?どういう意味?」


と言った。ただ一言、「凄い」って事ですよ、先輩。

二本松の菊人形

たまには競馬短編小説以外の記事を。
先日仕事の関係で、我々が住む市の一大観光資源である『二本松の菊人形』会場へ行って参りました。
実は久々の菊人形。
前に行ったのがいつなのかも思い出せないほど久々だったため、妙な感覚でございました。

良くも悪くも中はそれほど変わっておりません。
規模は縮小されていますがね。

そして平日の割にはお客さんの数もなかなか多かったのが嬉しかったです。
まだまだ二本松は他にはない魅力があることを再認識しましたし、それに頼りきるのではなく、良い意味での変化も必要になってきている時期なのではないか、ということも同時に感じました。

今月末、二本松市では市長選が行われます。
実はもうどちらに投票するかは既に決めております。

二本松市の有権者の皆さん、どちらに入れるにしても投票に行きましょう笑


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情報を出す

「町を描く」と言っても、現実にある町は日々変わっていっているし、同じ
ではない。そして歴史を持つ。町の事を知っているといっても、町の現状と
市民として過去にそうであった様子と、そこからの移り変わりの比較的短い
歴史である。とはいえ、「町」を雑観して「この町はこういう町である」と
言う風に規定しない限りは、「町」を考えるうえで何も始められなくなる。


移り変わりといっても比較的緩やかだから、いろいろ調べて「この町はこう
いう町である」と言い終わるまでに掛かる時間の間に、もうその町はそこに
は存在しない、という事にはならない。


「この町はこういう町である」


という事を語る事が出来ればある程度は目標の達成になる。だが、その述語
は慎重に与えなければ、まったく頓珍漢な事を言ってしまう事になる。また
住んでいるものにとっては普通の事が、実は普通でない場合がある。基準を
「この町」にしている以上、この町と他の町の差異は与えられない。あくまで
一般的なイメージの「町」を常に意識して、それと比較して場合によっては
具体的な他の町とデータを比較する必要もある。


あまり自明ではない情報を与えるとすれば、私の住んでいるところは比較的
ニューカマーが多い。自分の世代でここに家を構え、余所から越してきた
人もかなり居る。その世帯の中に私の家も含まれている。だからかこの地域
でずっと続いている伝統のようなものはなく、近所との連携も薄い。田舎
だからと言っても、常に地域の繋がりがあるというわけではない。


ここで少し浮かんだことを書くと、この町について知っている事で書かずに
いる事は確かに多いのである。私の腕では書ききれない事がある為だ。そこは
「二本松」という名前を出して、各々検索してみてもらう他ないのだが、
それでもネット上の二本松についての情報は少ない。ただ書いていても一気に情報を
与えられるというわけではなく、どうしても何かの機会に少しづつ出さざるを
得なくなる。いずれ、まとめられれば良いとは思うが、今はとにかく知っている
情報を出してゆく段階にある。



あまり内容はないが、一旦ここで切る。

馬主願望

僕は友人と競馬場に足を運んだ。
友人はどうやら馬主になるのが夢らしく、今日の競馬場での勝負事を皮切りに一攫千金を狙うつもりらしい。
これまで人の話をほとんど聞かないという悪癖を散々見せつけられた僕は、友人にちょっと悪戯をしてみたくなった。
彼は競馬で一攫千金を勝ち取って馬主になりたいようであるが、実は一時の収入だけではなれないということを僕は知っている。

原則として、彼が目指す中央競馬での馬主になるには
①過去二年間の所得が1,700万円以上
②資産7,500万円以上(預貯金、不動産、有価証券等)
が必要なのである。

例え競馬で一攫千金を得ようとも、過去二年間の所得がゼロに等しい彼ではここ数年は確実に馬主になれない。そしてそれはこれからも続くことが自明であろう。僕らはまだまだ年齢的にも若いし、資産はおろか多額の収入も見込めない。
『小さい人間だな』という批判は甘んじて受け入れよう。
それでも僕は友人として、人の話を聞かない彼に制裁を与えることで何かに目覚めてもらうことを切に願うことにした。

『なぁお前分かってた?』
おもむろに彼は僕に話しかけてきた。

『え、何?』
『馬主ってさ、資産だけじゃなくてさ、ここ数年の高額所得が必要だったってこと』

僕は耳を疑った。
彼は馬主になる要件を知っていた上で、全て話していたというわけだ。
ならば彼は驚くほど恐ろしい人間に成長していると言わざるを得ない。
良い言葉で言うと『面倒を見ていた』といったところであるが、やはりどこかで僕は彼を見下していたのかもしれない。
そして彼は僕のことを試してもいるのだろう。
“知識の有無”などではなく、“僕が彼をどう見ているのか”ということを。

『…いや、知らなかったよ…初耳だ…』
今の僕にはこれしか言うことが出来なかった。
まさか知っていたとは言えない。
言えば僕達の関係には取り返しのつかない亀裂が入るかもしれない。
『そうか、お前も知らなかったか、お前にも知らないことあるんだな、競馬って奥深いな。』
友人の成長に一握りの嬉しさと、手に余るほどの恐ろしさを感じた僕はようやく競馬場に到着した。

競馬場に着いた僕達はまず席を探すことにした。
普通の一般席でもいいのだけれど、自分を追い込むため、そしてちょっとリッチな気分を味わうためということを理由に二階席へ行くことにした。
幸いにも自宅近くの競馬場自体では開催しておらず、席もそれなりに空いていた。
ここは馬券購入所にも近いし、以前からよく利用している。

『お前は馬券買う時、何か決めてることとかあるの?』
『いや、無いよ。ていうか、馬券自体あんまり買うことはないね。好きな馬とか騎手がいたら応援する、みたいな感覚で買う位かな。』
『ダメだよ、そんなんじゃー!“絶対当ててやる”とか“今晩のメシ代の存亡がかかってくる”位の意気込みで臨まないと当たんねーぞ!』
『競馬の楽しみ方は人それぞれでしょ?君みたいな人がいるから競馬は成り立っているんだろうけど。』
『まぁ言われてみればそうだな。まぁ、俺は俺のやり方で勝利を目指すよ!まずは三連単に3万ほどぶっこむぜ!』

馬主への道は限りなく遠そうだ。

競馬と想像

「我々二人の管理人は何をすればいいのか?」については「町に対して」を加えない
代わりに、「ネット上で」を加えた別の問いを作る事も出来る。


「我々二人の管理人はネット上で何をすればいいのか?」


当初の始まりはここであり、ブログはこの問いに答える為にアイディアを出すところ
からスタートしている。少しばかりネットにおける現在の状況を分析してみると、
言うまでもないがアクセスも少なく、殆どこれと言った活動に結びついていない
ながらも、競馬小説のようなものを書いてみたり、やれることは少なくはない
ようである。以前、『指標』があると、何かを達成したという気になれるという
意味で便利だと述べたが、『指標』として競馬小説を10話くらい書ければ
一つの達成とも言えるのかも知れない。あるいは、競馬小説で書かれた設定を
活かして、実際の競馬の切り口にすれば更にそれを活かした事になるのかも
知れない。


私の短編はともかくO氏の短編については、マニア向けである。それだけに
実際の競馬を見ている間に感じる事も多く含まれていて、例えば馬主から
したら競馬はどう見えるのか、とか想像を膨らませる材料になる。POG(ペーパー
オーナーゲーム)はまさに馬主の気分を味わえる遊びだが、本当の馬主
となると金が掛かっているだけに懸命になる。本物の馬主にしか書けない
文章もきっとあるだろう。分らない世界なようであって、ダビスタやウイニングポスト
のようなゲームにおけるシミュレーションで、経営の姿を垣間見ている
者としては、何となくわかる世界である。ジョッキーの視点も小出しで
出される情報で何となく分らないでもない。


JRAにおける武豊の存在とか、日本競馬における社台の存在とか、テーマは
幾らでもある競馬だが、どこまでのレベルで語るかがポイントである。
私の短編では専ら普通の生活でちらっと競馬が姿を見せるときを書いていて
、大半の人はそれくらいでも十分競馬が趣味と言えるレベルである。


ネット上で深いテーマの文章を探そうと思えば幾らでも見つかるだろうし、
本も恐らく出ている。ある程度以上は内通者しか知らないので想像も
多分に含まれている可能性もある。想像でものを書くのならばいっそ、
フィクションにした方がよい。ただフィクションから何かの推理の
助けになるような事が生まれるのも確かである。ずっと前に、
O氏の特技は『妄想力』だと言っていたが、妄想と想像のギリギリの
ところで、何かを推理して世界をより広く深く知ろうと思う事は
なかなか良い事でもある。もちろん、弁えている必要もある。



実際上、ある程度以上の事は思考における『仮説』と知らないうちは
その『仮説』と一緒に必要となる『X』とするしかないある人なり、
団体なり、組織なりの活動を仮定するしかない。それは殆ど小説
を描くようなものであり、小説との違いは、それがリアルに起って
いる事だと半分信用して行動し始める事である。だからだろう、
競馬界の事について考え出すと、小説のようになってしまうのは。



『指標』としては、ちょっとした『仮説』とそれによって得られる
ようなちょっと別角度からの見方を与えられるようになれば
一つの達成かも知れない。

われわれ

「ナンセンスに」で書いたことを少し利用する。「○○は何をすればいいか?」
という型で思考するとして、「○○」に代入する言葉を「我々二人の管理人」
にしてみる場合。


「我々二人の管理人は何をすればいいか?」


ちょっと漠然としているので、ここに「△△に対して」という前置詞を加えて、
「△△」のところに「この町」を代入してみる。すると、


「我々二人の管理人はこの町に対して何をすればいいか?」


という疑問文になる。ここで、答えなど容易に出てくるものではないということ
を了解しよう。ただ、この問いに対してどのように答え(回答し)てゆくかと
いう事が重要なのである。勿論、このブログで行っている事はこの町に対して
することだけでなく、ネット上でこれを読んでいる人たちに向けて何かを
言うという事も含まれている。それでもこのブログでの挑戦は、この
問いに対して答えてゆく過程でもあるので、ブログの中身を理解し、評価
するには、この問いが念頭にある事が必要になる。


最初は確かに「我々二人の管理人は何をすればいいか?」という漠然とした
ところから始まったが、今は少なくとも「この町に対して」という対象が
浮かび上がっている。もう少し具体性をもたせるとすれば、「この町」
という部分に、「この町の経済」とか「この町の政治」とか「この町の雰囲気
作り」とか、限定をする事で目標が絞り易くなるだろう。


以前にも少し述べたように、町の事はどれも分ちがたく結びついている。
経済的な事は政治的な事に反映されるし、政治的な事は日常生活にも
関わってくる。その中で、我々が作用させられる事、影響を与えられる
事は、日常生活のレベルの事と市政の事くらいなものだが、場合によっては
小さな活動も可能になる。



結論から言えば、我々は我々なりにこの町をどのようにしてゆくべきか
少しづつイメージしてゆく事が必要になるのかも知れない。少なくとも
、このままで『良い』とは必ずしも思っていないわけであり、その不満
がこの活動のエネルギーともなっているのだから、そのエネルギーを何
かに注げるような場所なり集まりなどがあれば、そう言った不満は少なく
なってゆくのではないだろうか。魅力ある町づくりをするのであれば、
やはり何といっても目標が必要だろう。その『目標』をまず設定する
為にも、目標となる町の像をイメージしてゆく事も当然必要である。

町に対して

「ナンセンスに」の方のナンセンセンスにも書きましたが、「何をすれば良いのか?」
という問いについて、それに向かおうとしているイメージがあります。ナンセンセンス
での思考がイメージに向かっているところで終わっているとすれば、こちらではより
具体的にそのイメージをこの町で実現するとした場合どのようになるのかを、
「何に対して」という情報について対象を「町」に絞って思考してみる事が出来ます。


「この町に」という場合、やはり「ナンセンスに」の方に書いたように、町自体が
要求しているわけではないという事が重要です。あくまで自発的にこの町にあった
ら良いなと思うものを各々見つける事が必要であり、それに対してどのように
アクションするのかがポイントになります。


こと二本松市について言えば、この町に必要なものを数え上げていけば幾らでも
数え上げる事が出来るので、実際、それを実現するよりは余所に行ってしまうのが
早いという判断をしてしまいがちです。そして何より市民の側からの働きかけが
少ないのかおそらくは必要必要、不便不便と思いつつもあまり何も言わないという
状況が続いているように思います。必要なものにしても、緊急に必要なものに
ついては対処できるけれど、それ以上のものは基本的な体力がなくて出来ないような
財政状況なのかも知れません。とはいえ、細々としたものなら金を掛けずにできそう
なものであり、それには市民からアプローチしてゆくのもいいのかも知れません。


地元に貢献するというよりも、住民としての当然の権利を行使して、少しでも良い
町にしてゆこうという気概があっても良いと私は思います。何よりも、市民が
自分達で何かをやろうとする勢いが足りないとも言えるかも知れません。


先ずは「意識改革」という結論になるのでしょうか。

「町」のイメージ

そこにある町を『町として』認識できるほどの情報を、そこにある町から切り取って
文章で再現する為に必要となるのは具体的な地形や地理的な情報もそうですが、他の
町と『差異』であろうことは容易に想像できます。ここで町が他でもなくこの町の事を
言っているのか、それとも一般論としての町を語っているのか、はっきりさせる必要
があります。とはいえ、「町」という言葉、分類、概念によって考えられているものが
何なのか分析しておくことは決して無駄な事ではないでしょう。そうしてから『差異』
について考えると良いのかも知れません。




「町」と一括りにしているものは、法律用語とか行政が用いる正確な定義でなければ、
普通に、幾つかの店や家、施設などが一定程度揃った地域とも言えるでしょう。
もちろん、普通はそういう地域ならば、国でも県でも市でもとにかく行政が何らかの
かたちでそこを把握し、地方自治体が普通は存在します。組織ですから、そこには
長がいて、議会があって、基本的に「町」で何かをする場合にはこの組織が関与
する筈です。ゆえに、ニュースなどで知られる「町」は、長や議会などに代表される
「町」としての取り組みから評価され易いでしょう。


もっとも、「町」が「町づくり」に積極的でない場合、あるいは何らかの事情によって
上手く行かない場合、町並みは時が経つにつれてあるべき姿に変わってゆきます。
つまり、立地条件などに応じた商業施設の繁盛の度合いの格差が生まれたりとか、
ある場所のみ建物が建つけれど、他の場所は荒廃してゆくといった具合に。



ここで二本松市の話をすれば、私の知る限り二本松市は市の中心地にはあまり手を
加えないようです。景観を残しておきたいのか、ただそのままにしているのかは
不明ですが、郡山方面から福島方面へ抜ける『バイパス』の便利さに比較すると
市内の道路の狭さ、駐車場の少なさから、明らかに二本松はただ通り過ぎる途中に
ある小さな市というイメージになってしまいます。平成の合併によって広大な
面積となった二本松市ですが、もっとも「市」らしい二本松駅前付近ですら、
最近はシャッター通りになってしまっていて、土地が有効に利用できていない
感じがします。むしろ、必然的に中心から大分外れたところに出来た大型ショッピング
モールを目指して車は動いているような場合の方が多いのではないかとも
思われてしまいます。


「町づくり」には積極的ではない。というよりか、今はそれどころではなく、
除染やら、避難民のこれからについて議論がされているのだと思われますが、
そうこうしている間にも、市内で何かをするところはめっきり減ってきて
しまいます。ただ、そういう条件であっても人はそこで生活しているわけで
あって、何というか田舎のリズムがあって、少し不便なところはあっても
別にだからと言って特に困るほどでもないというのは多分、そこに慣れて
しまっているからなのでしょう。実際、私が住んでいるのは市内から
すこしばかり離れたかなり静かなところですから、住宅以外はほとんど
何もないような場所ですが、ネットがある現在では特に不便を感じません。



やはりネットがある現代なのでしょうか。このブログを始めるまでは「町」に
対してそれほど興味を持っていませんでした。自分がそこに居る空間を見失い
やすいようです。 実際問題、ネットの文化は情報さえ共有されれば、
恰もそれを見たような気になれますし、特に妄想的な文化でもありますから、
想像につぐ想像でも、特に問題は無いのです。ただ、やはり現実に「生」で
何かを見たいという欲求は強まっていくのは確かです。ですが、逆に、
何もないからこそ考えたりすることによって描けるものは増えてゆくとも
言えます。そして、何より自然にそこにある景色などは確かに独特でも
あります。ここから大きな『山』が見える。それが実はかなりの印象
を与えているのですが、どうも言葉にするとその良さが失われてしまいます。



言ってしまうと、私が住んでいる場所は『そのままの』感じが残っている
場所です。人間が人間の住みやすいように土地を作り替えてしまう以前の
、『そのまま』にしておいている感じ。もちろん、堤防を作ったり
人の手は加わってはいますが、「まあ半分くらいは手を加えたけれど、あ
とはこんなもんで良いでしょ?」的な良くも悪くも、何から何まで人間が
作ったものではないんだなということが普通に実感できるような場所です。



だから二本松の歴史を勉強していると、本当にここがそうあったのかなんて
ことはあまり想像できません。人間の歴史的な背景よりも、大地が育んできた
生命のライフサイクルの中に自分があるようにも感じたりします。何より
この辺りを歩いていると、遠くが見える割になかなか進んだ気がしないような
感覚に襲われますが、これが人間の大きさをしっかりと把握させてくれます。
山や大地の広大さに比べると、人間の縮尺が違うのでしょう。


このように、ここも「二本松」なのだという事を主張しなければならないと
すると、「町」を考えた場合に、どうしても「町」は「市内」のイメージで
同じ町なのだという感じが薄れてしまいます。が、同じ町として括るなら
霞ヶ城を中心とした城下町から広がってゆき段々建物がなくなるというよう
なイメージで良いかと思われます。とは言っても、全く何もないわけではない
というのが微妙なところなのです。何よりもなまじっか駅が近くにあるので
それほど不便に感じないというのが私の住んでいるところの特徴と言えます。



あと少しだけ付け加えます。


ご存じの方もいるかも知れませんがこの「町」は浪江町との関係で状況が
複雑化しています。グルメにも選ばれたように「浪江焼そば」は美味しい
です。市民交流センターで食べる事が出来るので、是非。

町を描くという事

この町で何が出来るのかを考えるという事に終始しているように見えるこのブログ
ですが、わりとフリーテーマで書くことが出来るという事で重宝していたり
します。といっても、テーマと呼べるほどしっかりした事はなかなか書けないもの
です。特に今は自分の中から絞り出す感じでは、多分あとほとんど出ないような
ところにきている感があります。


ただ、この町で何が出来るかを考えるにあたってはまだまだ考える事が出来るような
気がします。この地域の情報を事細かに書いてゆく作業を一通りやってみながら、
町のあり方について思考してゆくのが良いのだと思われます。普通に生活している
レベルでは確かに認識している事でも、言葉にすると曖昧さが残っている事もあります。
その曖昧なところを正確に書いていって、他でもなくこの地域の地域性が浮き上がって
来るような情報を集め、整理してゆけるならば、他の地域との比較で、今この地域に
足りないものは何かという事も分ってくるでしょう。それは一般的な町ではなく
この二本松市という町を記述する試みでもあります。



明らかにここまでの話は二本松以外の事を考える場合も同様の手段を利用できます。
そして書いてある事は、二本松の事ではありません。ここから純粋に記述という
行為によって、どこまで二本松の事を知らせる事が出来るのかです。



『二本松あるある』のツイートしているアカウントは「祭り」を中心として
あるあるネタを出していますが、「祭り」は明らかに表面的なものです。
そして「菊人形」でさえも二本松の姿を見えにくくするものでもあります。
ちなみに今日電車に乗って移動したのですが、どうやら外国人の人も団体で
観光に来ていたようで二本松駅で降りているのを見ました。国際化の波は
この地方にも訪れているという事がよく分かる具体例です。



ネット以外で二本松の情報を仕入れる際には「市民交流センター」を利用する
のが比較的常道なのでしょうか。駅からすぐのところにあり、今も「五星山展」
が例としてあるように時々美術関係の展示が行われたりする比較的綺麗で
清潔感のある施設です。館内でパンフレットを貰ったり掲示板を見て、どんな
催し物がやっているのか確認する事が出来ます。人が集まり易い場所にあるので
もう少し雑誌などを置いたりすれば、憩いの場になったりもするのではないかと
思われたりもします。一時間当たり数百円で会議室などの部屋を借りる事が
出来るので、もし何かの集まりがあるなら積極的にそこを利用すれば
よいのではないかと思います。というのも、二本松市内にはくつろげる場所が
少ないので、市内を歩いているとどうも途中で立ち止まる事が出来ないのです。


ここから市の小さな図書館に行くというのが情報集めとしては無難なところ
なのでしょうか。


駅から少し急な坂道をのぼってゆくと、ちょっとばかり古めで色褪せている建物
が左右が立ち並びます。十数年前と比べると全体的に商売の規模を縮小した
ように見受けられます。外から来た人にとっては、「歴史ある場所だから
こんなものなのかな」かと思われるかも知れませんが、以前はもう少し
賑わいがあったと記憶しています。人が明らかに減ったのです。坂を
のぼりきったところに神社があります。かなり本格的な神社で、社は
階段をかなりのぼったところにあり、新年の初詣などではかなりの人が
集まる名所と言ってよいでしょう。


神社を通り過ぎ、少し進むと老舗の和菓子屋があり、その角で左に曲がる
細い道があり、そこも坂道になっているのですが、その途中に市の図書館
があります。歴史資料館が隣接するこの図書館は、市の図書館とは思えない
ほど小さな『図書室』レベルの図書館です。図書館の本は毎月一定数の
新刊は揃えていたり、やはりというか原発関連のコーナーもありますが、
専門書が少なく娯楽がメインで、本は古めです。小さくまとまっているのが
良い点ですが、比較的珍しい本が無造作に並べられていたりするので、
勉強する為に本を借りる場合は注意深く書架を眺めなければならない
ところなどはあまり好ましくない点です。


とりあえず生活している中で、情報集めの起点となるような場所は
この二か所と、駅からは少し離れますが市役所になるでしょう。長く
なりそうなので一旦ここで文を切ります。

切実さ

一つ前の記事で、



『ある条件、状況下におかれた人間の行為の価値は、無為にしても精神的
な価値を考慮すると、その条件、状況を理解出来るものにとっては
正当に評価されます。困難さにはそれぞれの『リアリティー』があります。
そのリアリティーを了解するからこそ、何かの価値が理解できるわけ
でもあるわけです』


と最後に結論づけました。ここから更に考えられることがあります。
困難さの『リアリティー』というものを確かに感じられるものである
とした場合、具体的には難しい問題を解く場合に感じるような、息苦しさ
のような感覚だったりするわけですが、とにかくそれがある場合を
考えましょう。


現実において存在している私達は、少なくとも起きている場合、
ある確かさで現実を認識し、一般的にはその中で何かをする事の
困難を認識します。特に困難さの『リアリティー』は夢や虚構を
基準とした場合の現実に対する相対的な評価とも言えます。
それは己の能力や、現実的に可能な事の情報が与えられている
場合に、よりはっきり認識されるものですが、実を言えば現実は
ある意味では夢よりも豊かであり、ある意味では夢よりも貧しい
のです。結局のところ空間的にもそうですが世界がその条件である
一瞬において起こる事は、少ないのです。ただ、条件が特殊
ならば起こる事は刺激的でもあり得ます。可能性の問題として
夢においては本来あるべき枠が取っ払われているのです。
その代わり、空間を成り立たせるために別の枠が与えられます。
フィクションでいうならば、どのような世界なのかという
情報が与えられ、その中で成り立つ出来事の中にいるのです。
勿論、脳内にイメージできる情報です。可能性においては
現実より多いように見えますが、ドラマ的なものについては
夢は持続しません。現実という舞台は歴史的なものを考慮
すれば、ドラマ的なものが大いに可能になる世界なのです。
その意味で夢は現実より「少ない」と言えます。


その多いような少ないような可能性の夢から目覚めた後の
現実は、相対的に何かを継続してやるにはうってつけの
場とも言えるし、何かが物質的にも情報としても積み重
なってゆく良い空間です。さらに言えば、その条件を
はっきり認識した場合の『リアリティー』の中で人々は
判断し行動します。取りも直さず、現実で何かをする
ということは、このリアリティーにおいて何かをする
事であり、派手さは無くても、そのリアリティーを共有
する者にとって切実に価値のあるものは確かにあるのです。

XXXHOLiCについて

『アニメ・マシーン』という本で、CLANPの「ちょびっツ」について
語られていた部分で、論文の肝となるのは、「ちぃ」という存在が
パソコンなのか人間なのかという一点という事でした。

同じように、「XXXHOLiC」においても肝となるのは、侑子さんが
人間なのか人間じゃないのかという事です。設定としては「次元の魔女」
ということになっています。侑子さんの振る舞いは、人間よりの部分も
ありますが、日常生活においてもどちらかというと何らかの制限なり、
「条件」の中で形作られるものであり、おそらくは存在自体が、
そのような条件や制限を必要とするのだと思われます。


日常的なことにおいてもそうですから、存在を人間として見た場合と
背景を知ってみた場合では、印象が変わるでしょう。あくまで人間
として見る限りにおいて、ミステリアスな女性という印象が与えられ
ますが、実際問題として非常の能力を有するわけですから、そういう
背景を鑑みた場合は、そのまま人間としての評価は出来なくなります。



人間はあくまで現実において様々な条件が最初からあるところに生き、
そのなかで「価値」を見出します。条件が一人だけ違うような、例外
的な一点の中で人間とは違う理で存在する「モノ」「者」が人間に
とってどのように映るか、そしてそれをどう評価するか、それが
物語の鍵となっているようです。


その違う理の中に生きる存在を、人間の尺度では評価できないのかも
知れませんが、もしそれが普通の人間がただ能力を獲得しただけの
存在だとするなら、その「苦悩」、「迷い」、「判断」と言った
感情的なものが全く理解できないというわけではありません。その
可能性において、彼女を評価出来る存在は、彼女の行っている事
全てを見届けられる存在、特異体質の人間…と云うことになります。



ある条件、状況下におかれた人間の行為の価値は、無為にしても精神的
な価値を考慮すると、その条件、状況を理解出来るものにとっては
正当に評価されます。困難さにはそれぞれの『リアリティー』があります。
そのリアリティーを了解するからこそ、何かの価値が理解できるわけ
でもあるわけです。

雑文②

年齢的なものなのか、あれやこれや考える事がなくなってくる。
現在がどういう状況なのかくらいは分っているつもり。出来る事
と言えば、腐らずにやる事だろう。


分かり切っている事を繰り返す必要はないのだが、繰り返しではなく
『上手く行かない感じ』である事を、そうなった時には確かめる事
くらいはしておかないと、何にも言うことがなくなって余計行き詰る。


多分、長い目でみれば行き詰って、何とか動いて、また行き詰る、という
道程があるのだろう。「この行き詰まり」は「以前の行き詰まり」ではない。
毎回毎回、何か違う事で行き詰って、同じように『行き詰まり』だと
感じる。


世界は変化しているけれど、変化はすぐに訪れるわけではない。入れ替わり
、一つの時代の終わり、はそんなに簡単にではない。『何か新しい事』、
と威勢の良い事を言ってみたところで、新しい事が受け入れられるラグ
を考えると、地道にやるしかないのだろう。



少し基本的な事から考え直してみよう。




自分達の立ち位置を上手く理解する事は大切である。一般だと思っている
自分の考え方が既に何らかの特徴を有している場合に、マスメディアは
挙って「○○系」と命名したがる。キャラクターほどしっかりしていない
としても、類型把握できるという気持ちがあるのだろう。類型化する
マスメディアですら類型化され得る。その位置で、その類型通りに
振る舞う事が期待されているわけではない筈である。ただ、思考する
際に、かつて大衆と呼ばれたものに『一様ではない』という情報を
持たせるにはどうしても類型という概念が必要となる。



一様ではない。というより、一様に眺めるメディアの視点がかつては通用
しただけで、今は実情を何も反映していない虚構における背景のようなもの
と同じである。比較的マスメディアと相性の良いらしい「Twitter」は意見の
全てではなく部分、結論のみが「みんなの声」として取り上げられる。
何故、ブログの意見を全て引用するのではなく、編集し抜き出して語る
のだろうか?その意見を言った背景が重要になる事もあるのに。



『番組』、決められた時間枠内の、その中でのまとまりを重視する方法では
無理な事が当然ある。ある重要な意見が、出演者の中からではなく視聴者の
中から決定的に出てきてしまった場合、番組は形式を保てなくなる。明らかに
フィルタリングされた情報が流される。ネットが真実の場所だとも言わないし
、メディアがそれだとも言わない。




これにしてもあまり意味がない。多分、問題点は殆どの人が共有している
だろうし、何とかしようとする動きも確かにある。しかしながら、漠然と
思っている事を言わなければ共有されているかどうかも不明な感じに
なる。


『不明な感じ』は確かにある。言葉にはしていないが暗黙の了解。「空気」
と呼んだものの正体は、きっと『確認はしないが確かに共有されている
だろう』と予感されているものであり、その予感に基づいて動いている
他者が複数いるだろうなという判断でもある。


そうでなくては説明出来ない事。ある意味では空気を読めない人が出てくる
事で、その空気が確かにあったということが分るような事である。ある意味で
ネット上で『言い過ぎない』のも、ネットを離れたら『言い足りない』感じが
あるように思われるのも、ネットで何かをしている間はネットの空気を
読んでいるからでもある。



ネット上である位置を占めている事が、マスメディアの解釈によっては殆ど
ないようなものとして扱われている現実がある。ネット上の空気においては
通用する言葉が、マスメディアの解釈では異様なものとして取り上げられる
事もあるだろう。『空気』は違うのだ。


少なくともネットを利用するにあたっては、ネットの空気を読む。空気など
というものが無いと判断しても、確かに何がしかの風潮はあるわけで、炎上
などの現象が普通に起っている。過去のそれとは違っている。そのネットを
利用している中で、気楽に何かを述べる事はそんなに容易ではない。既に
意識してしまっているからである。



ネット上の位置、マスメディアが作る世界観における位置、現実の自分は
それらを全く欠いているところにある自分、、、というわけではない。
それは自分の能力を過小評価してしまっている。その微弱な影響力の分だけ
は必ず存在している。ゼロではないのである。マスメディアには「○○系」
の一例として、ネット上では「○○さん」というハンドルネームで、確かに
位置を持っている。財産には見えないかも知れないが、それによって構築
した関係は、ゼロでもない。なんらかのネトゲで伝説になったとしても
それはきちんとその影響を持つのだ。


ただ、目に見える世界の方が『リアル』とされ易い。ここで肝心なのは、
その『リアル』は色々なものを加味して成り立っているという事である。
ネット上を充実させる事くらいは出来るのではないだろうか?

当たり前のものの利用

何かをするにあたって、何か利用できるものが無ければ何もできないので
はないか。それは部分的には真実かも知れない。


ただ最近行っている競馬小説のような創作については、一応何も
ないけれど知識を活かして自力で創っている。何かを見積もる際、
自分の能力で可能な事を考慮に入れない場合は、その見積もりは
少し間違っていると言ってよい。微力ながら、何かを創りだせる
力を人間は有している。


ある心理学の本では、普通に生きている事自体でも立派に自らの物語を
紡ぎ出している、と言っている。大きな話題があるかというとそうではなく
、小さな話題があるかというとそうでもない。そんな人生でも、まさに
「そういう」人生を生きていて感じる事はあるし、その中で面白い事を
それぞれ見つけるものなのだ。


そういう意味で言えば、『競馬』を趣味として、さらに創作が出来る
くらい好きだという事は、人生においては取り除いてはいけない重要
な要素が『競馬』だという事である。競馬が無いような人生なり
小説は、ある意味では自分の人生ではない。何らかのカタチで『競馬』
の「ケ」でも出てこないならば、それは不完全でもある。



世界は「こう」ある。それは間違いない。私の人生においても競馬は
何気なく登場してくる。それこそあって「当たり前」のようなものだ。
野暮ったく感じてしまう人も居るかも知れないが、計算も何も通用
せず、ただ純粋に『どうなるか分らない』様子を楽しんでいる人たちが
いる。


ある意味では、凄い事でもある。



当たり前の事を肯定しているに過ぎない。当たり前にあるものを利用していない
と云うのが今なのかも知れない。二本松の事にしても。

駅伝

二本松市のHPを見ていたら

http://www.city.nihonmatsu.lg.jp/soshiki/49/20131031-1.html

こんな記事を見つけた。『第2回二本松市一周駅伝競走大会』
だそうで、第1回が既に行われていた事に驚いている。管理人
Hは中学校の頃陸上の長距離走をやっていて、まあまあマラソン
や駅伝には興味がある。11月23日の土曜日に二本松市役所前
スタートだそうである。


二本松の中学校はまあまあスポーツが強いと言える。合併以降
ロードレースで有名な東和も二本松になったから、陸上に関して
は強くなったりしているのかも知れない(でも知らない)。



応援しにでも言ってみようかな…。

超高速粒子

「アグネスフライト」君と昼飯を食べに行った時の事。

「先輩。訊いて下さいよ!こないだ部長に呼び出し喰らって、もう凹んじゃいました!!」

「凹んでいるというか。何か苛立ってない?」

「だって、あれはしゃーないですって。先方の方にも落ち度がありましたよ」

「でもな…そこはあれだよ。こちらがカバーしなきゃいけないんだ」

と宥めると、「アグネスフライト」君は深く溜息をついた。まだ納得いかない感じである。「アグネスフライト」君は新入社員の中でもある分野では優秀な方なのだが、総合的な能力で「エアシャカール」君に一歩リードされているという印象を持たれている。これは私だけの意見ではなくて、バリバリ仕事が出来る「ブエナビスタ」先輩からの評価でもある。ちなみに現実の競馬ではブエナビスタの方が年下なんだけど、牝馬で圧倒的な強さを誇った馬として同じ年代に生まれていたとしてもブエナビスタには勝てないイメージがある。その先輩が下した評価と一致したから、私の見立ては間違っていないと思う。


「アグネスフライト」君は頭のキレが良い方なのだけれど、相手にも同じ理解力を求めるきらいがあって、周りと衝突しやすい。そこでもうちょっと辛抱できるようになれば、仕事も上手く行くのだけど、若いからか途中で粗さが目立ってしまう。そこは一応伝えてはいるのだが…


「でも、先輩。仕事はパッパっと終わらせたいじゃないですか」

「継続も力だよ。長期的に見れば、上手く付き合う事で利益が上げられる事もある」

「…まあ、そうっすけど」


「アグネスフライト」君は、なんとなく末っ子のイメージをもってしまう。本人に訪ねてみる事にした。


「君ってさ、もしかして末っ子?」


「え?いや、弟が一人ですよ。それが何か?」


「それは本当かい!!!!」


分る人には分ると思うが、私は猛烈に「弟をスカウトしなければならない」と思ってしまった。いや…でも弟だからと言って、必ずしもあの弟と同じとは限らないか…というより、「アグネスフライト」君はアグネスフライトじゃないわけで…


「一応聞くけど、弟って今何してんの?」

「え、大学に通ってますね」

「…もしかして、凄く優秀だったりする?」


普通は弟の事を詮索したりはしないから、「アグネスフライト」君も返答に困っているようである。でも私が熱心に聞くものだから答えてくれる。


「まあ、優秀っていえば優秀かな。なんか将来は研究者を目指しているとか…でも今は厳しいって言ってましたね」

「あ、そうか」


そりゃあそうである。そこまで『あの馬』と同じだったら凄い。


「ちなみに、何の研究?」


「たしか、物理だったかな…」


微妙に合っているような気がするが、物理関係でも「タキオン」と「プロトン」という二種類の可能性があるのでそこはどうなのだろう…


「あの…もしよかったら研究テーマとか教えてもらえるかな」


「アグネスフライト」君は疑惑の眼差しを私に向けている。


「あの、まだ大学一年ですよ」


「あ、そっか…残念」


「え…何が?」


「あ、いや。こっちのこと…」


しかしながら何かを諦めきれなかった私は「アグネスフライト」君に伝える事にした。


「あのね、もし弟君が研究テーマに迷っているようだったら、「タキオン」が良いよって言っておいて…あ…でも現実的な話をすれば「プロトン」の方なんだよな…」


「へぇ…先輩物理に詳しかったんですか」


「ううん、全然」


「はい?」


頭のキレが素晴らしい「アグネスフライト」君でもさすがにこればっかりは何の事を言っているのか分からなかったようである。

取替引替

競馬の楽しみ方は、ファンの数だけあるのだろう。
純粋に馬券を買うことも良し。
単純に好きな馬を追っかけるのも良し。
血統マニアを気取り、レース後に分かったような顔をして解説し始めるのもまた良し。

ただし、そのように純粋に競馬を楽しめない人種が一つだけあるとしたら、それは馬主なのかもしれない。
競馬界はある種の閉鎖的な世界で、例えば競走馬や預託を任される調教師、日々の世話を行う厩務員やジョッキーに至るまで関東で言えば美浦、関西で言えば栗東に集まっている(中央競馬の場合)。
そんな中で、競走馬の持ち主である馬主はそういった所には所属せず、常にビジネス的な面を持ちながら競馬に日々触れている。

セリ市において、数多くの未来の競走馬が市場に出されるわけであるが、彼らに付けられる値段はまさにピンからキリまである。
いくら安い馬だといっても、自動車など軽く買えてしまうほどの金額であるし、それこそ高額馬に目を向けてみると億を超える馬も珍しくはない。セリ(競売)であるから、血統の良い馬は自ずと値上がりしていく一方である。
そのような背景があるから、とかく馬主という人間は競馬をビジネスと捉えている。


再会を果たした友人は憂いている。
『俺もあの頃より競馬を分かってきた。もうお前と対等に議論できるところまでの知識は身に付けたつもりだ!』
敵愾心を持たれるほど僕らの仲は悪くないはずだ。どうやら彼は少々突っ走り過ぎているのかもしれない。それでも僕は辛抱強く諭す。

『そう入れ込まないでよ、別に議論とかではなくてさ、競馬について雑談とかする程度でいいじゃん』
『そういう上から目線の態度でいられるのも今の内だけだぜ!』
僕の話をまるで聞いていない友人。

『競馬の魅力の一つとして、俺は名馬とジョッキーのコンビがあると思うんだよ。例えばさ、先週くらいまでCMで流れていたスーパークリークと武豊。あとはメジロドーベル、ナリタトップロード、テイエムオペラオーとかもそういった観点からみると素晴らしかったと思うのよ、俺は。経験の少ない若手ジョッキーを育てる名馬っていう構図。』
『否定はしない。』

『今の競馬にこういう美しい関係ある?みんな乗り替わりばっかりでしっちゃかめっちゃかだよ。聞けばジェンティルドンナも岩田から次は外国人ジョッキーになるっていうじゃん?馬主なんてどんな金持ちなのか知らないけどさ、そんなことばっかりやってたら若手は育たないぜ。』
『…否定はしない。』

『馬主はビジネスだからそうなるのはしょうがねぇと思うけどさ…ちょっと度が過ぎてるよな。俺が馬主になれたら若手騎手を育てるようにするのになー…。外国人ばっかり乗せてるとその場は確かに良い結果は出るかもしれない、でも長期的視野で見ると気付いた時には有望な日本人ジョッキーがいない、なんて事態にもなりかねないぜ。』
『…うん、まぁせいぜい金持ちになってくれたまえ。』

『っつーことで…馬主になる道を進むために、一攫千金を求めて今から競馬場行くぞ』
彼の競馬に対する思想は、ある面では僕を凌駕しつつある。

中学ネタ

O君とブログを続けていると中学校時代のネタが思い出されます。
記憶力は良い方ではないのですが、面白かったネタは結構記憶に
残るみたいで、こんなネタで思い出し笑いをしています。

「魔犬のマッケン」


駄洒落ではないんですけど、ノートに魔界の犬で名前がマッケンという
キャラクターを考えて描いたのです。仲の良かったグループの一人が
やたら「マッケン」のグロテスクさに笑い転げていて、「マッケン」
と言うだけでツボにはまってしまっていたようです。


「魔犬のマッケン」とか中学校時代の休み時間に浮かぶネタは
奔放な想像力の賜物でした。グロいドラえもんを書いて「グロえもん」
と呼んでいたりもしましたが、「マッケン」の方が安直で
面白いですね。設定は本当にお粗末なもので、とにかく魔界にいる
犬です。

競馬場へ

日曜日に福島競馬場に行ってきました。人が結構いましたよ。
横山和生くんを応援していたのですが、目の前で一勝して
メインレースも2着して、かなり活躍したと言えるのではない
でしょうか。
プロフィール

二人の管理人

Author:二人の管理人
ブログには珍しく二人の管理人で更新してゆくブログです。

二本松のこと、競馬のこと、これから手探りで何かを
やってゆこうと思っています。




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