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スローペースで、二人で出来る事を模索しながら。二本松、競馬、などなど。

マジレス

小さなN市は非常に難しい都市である。
例えば私の職場から市に何か提言をしても右から左へ受け流されることがほとんどだ。
そして最後には『あんたらは余計なことを考えるな』と、こういう始末だ。
だったら最初から我々に意見を求めるようなパフォーマンスをやめろ、と声を小にして言いたい。

N市は城下町である。
その気質が市民の中にも残っており、まず目新しいものや斬新なものはほとんど受け入れられない。
外から来た人にもなかなかに冷たい。『観光都市』などと謳っていながら、だ。

私とH君はそんなN市に住んでいる。
先行きは明るいとは言えない。
でも、恐らく『うちの自治体は順調です!!』なんていうところはほとんど無いだろうし、人口減なんていうのは当たり前の減少になってきている。
人口が減れば、当然生産年齢人口も減少の一途をたどり、その地域に住む人間達の個人所得や小売販売額なども連動して下がっていく。
もうあとは悪化するだけ。

どこかで何とかしなければならないが、悲しいことに今の市長はそんな期待を抱けるほどの指導者ではない。
近隣の中核都市に合併されることも遠い未来にはあることなのかもしれない。
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考えるべきこと

世の中の事について考えたりすることは多い。
でもなかなかまとまった思考にならず、断片
的にそうだなと分かったという事の集まり
が得られるだけである。


やれ日本が、やれ世界が、やれ○○市が、
やれ家の前が…と言った具合に広さも
それぞれで大きさも色々。そういった事実
のより集めに対して、、、


一言、とりとめもない。


自分が一体何について考えているのかは『世の中』
なのだけれど、具体的に『世の中』の何の面について
考えているのかはっきりしない。時に経済、時に
政治、時に面白いネタ。



問題と言えば問題だらけである。解けるような問題
ではなく、解決そのものが不能なのではないかと
いうような問題もあって、そこは何気なく自分を
誤魔化しているような時もある。


自分の住んでいる町、市、県が何となく元気が
ないように見える。小さな市だが、小さな市で
出来る事の限界内で何かをやろうとすれば途端
に手詰まりになりそうだ。何かを始める事につ
いてはある意味超ハードモードである。



ネット環境は、何はなくても何かあるような気に
させてくれる。「ここ」を大切にしないで、
「どこか」ばかり見ている。ばかりか、直接関係
ないだろうという事にまで関心を持つように
させる。



地道な活動しかない。というのは分っている。しかし
活動と言っても、「ネタにすら困る市」とでも
銘打ってネタにでもしようかと思えてしまうくらい
手付かず感が強い。現実を認識する事は現状を
認識する事で、現状は認識するほど、認識する
ほどの物がない。なんか道端にオブジェでも
置けばいいのにとか思ったりしなくない。

ひねくれ者の思考回路

基本的に私はひねくれ者である。
例えば、ある人物から褒められたとしよう。
しかし、私はそれをそのまま受け取らない節が多々ある。

他人:『すごいねー!!』
自分(口頭):『あぁ、ありがとうございます』
自分(脳内):(は?こいつ皮肉で言ってんの?)
自分(脳内):(現に『すごいねー!!』しか言ってこないし。超抽象的。俺のこと馬鹿にしてる証拠だ。)
自分(脳内):(ていうか、こいつ俺のこと褒めたりして暇な奴だな。もっと他にやることあるだろ?)
自分(脳内):(白々しい褒め言葉はかえって逆効果だよ。うわぁ…教えてやりてぇ…。)
自分(脳内):(『すごいね』以外に何か言えねぇのか?あん?)
自分(脳内):(俺を褒めても何も出ないけど。何が目的だ?)

口では丁寧にお礼を言いながら、脳内でこれだけ罵詈雑言を並べている。
はっきり言って付き合いにくい人間だ。
恐らく他人を必要以上に信用していないが故にこんなひねくれ方をしている。
それは学生時代に、いわゆる『出る杭は打たれる』的な扱いをされたことに起因する。
たまにこんな自分が嫌になることがあるが、少なくとも口車に乗せられてホイホイ騙されるようなことにはならないので、これで良しとしている(相手がそれを逆手にとって騙しにかかってきたらどうしようもないが)。

ネタが無いからこんなことばかり考えている。
ただ、こうやって自分という小市民を文章化してみるとなかなかに面白い。
あぁ、こういう人間だったのか、という気付きが生まれた。

駄弁りの効果

「ネタを考える」という事をネタに話を考えてみたい。
メタというやつだ。そもそもこのブログ、その内容を
考えるという、その事すらネタにして成り立っている。

ならいっその事ネタを考えるということすらネタに
してしまえばいいのだ。


と思うけれど、そんなのネタにならない。ネタを
考えている間の自分は、ひたすら地味で、無言
である。既に言ってしまった事を除いて、そこから
まだ言われていない事を見つけ出す事ができたなら
めでたくネタになるが、そうそう見つけられない。


日々を無駄に過ごしているとは思わない。むしろ
無い知恵を振り絞っているくらい有意義だ。


ちょっと思いついた事を述べてみよう。



『ブレイクスルー』


というような事を題材にした本があるとしよう。
その本は『ブレイクスルー』となるアイディア
を具体的に述べてはいない。むしろ、『ブレイクスルー』
をいかにして起こすかというような事が主眼
となっている。


多分、その本では一般論で『ブレイクスルー』と
なるアイディアが生まれやすい「条件」をつくる
ところから始めて、諦めずにやれというような
結論を述べるかも知れないが、条件なんて
大抵揃っている。



条件が揃っているのに、全然出ない。そんな時、
多分、ほんの少しでもいいから何か関係する
のある情報を反省し整理する事によって、ちょっと
した動きがあって、何かが偶々出るような事が
あるだけだと思われる。リソースが同じなら、
集中度を高めればいいとか、そういう事なら
確かに本を読むことによって「すっきり」して
、空いたリソースに何かが入ってくるような
事もあるかも知れない。



なら本を読むことは効果的だ。他にも、一旦
頭を切り替える事によって…とか様々な
効果はあり得る。心理的な効果とか。



でも多分、私にとって大きいのは、ネタ詰まり
した、沈黙とも言える時間が延々と続くことに
よる、『何でもいいから情報が欲しい』、『何でも
いいから情報を発したい』という気持ちを少し
和らげてくれる効果だ。



「情報を得た」。それは確かに「無」よりは
マシだと。それはつまらないものでも同じだ。



駄弁る。駄弁る事の意義は、「無」の回避だ。
という事で、「無」を回避する為、駄弁っている。
ネタを考えるには、駄弁るべきだ。

記者もどき

『君は本をよく読んでいるからね』
その理由だけで春先から職場の広報紙を担当している私。
しかしながら、本を読むのと文章を書くのを同一と見なすのは少しばかり違う気がする。

いつからだろうか。
本を全く読まないことを偉そうに語る人種を蔑むようになったのは。
勿論、本を読む読まないは個人の自由であるが、読まないことを鼻にかけるなどは言語道断であると個人的に考えている。

話が逸れた。
職場の広報誌の件である。
実は自分で文章を考えることはあまりない。
記事担当職員に字数を伝え、〆切までにその原稿を集め、おおまかな配置を考えるだけなのである。
そのため、『君は本をよく読んでいるからね』などという理由による広報紙担当は見当違いなのである。



と、つい5分前まで強い決意を抱いていたのだが、本日夕方から行われる講演会の写真撮影及び…
『君も講演会に出席して広報の記事書いておいて』
という命令を受けてしまった。
…せいぜい努力だけはしてみるが、やはり自分に文章書きは少々荷が思い。

趣味1

趣味について語るのは久しぶりだ。


最近「てーきゅう」というアニメ及び、漫画に
ハマっている。小説ではギャグはなかなか味わえ
ない。一番とち狂っているものを探すとどうして
も漫画という媒体に行き着くのではないだろうか。


実際、文を書く時点でそれは読めるものになる
から、ある程度整然としている。読めなければ、
文自体がおかしいと判断されてしまう。つぶやき
のような「一言」を、理路整然と説明すると
途端につまらなくなる、というのもギャグが
なかなか小説で実現しないという要因でもある
だろう。


「ナンセンスに」


というブログで書いている「ナンセンス物語」も
本当はギャグを目指しているところもある。
だが、文だから、言葉を用いるし、言葉に
よって伝え得る状況しか説明(記述)出来ない。
だからどうしても、伝えられる状況も限られて
くる。


漫画の魅力を文で表現する事が困難だろうか?


多分、困難なのだ。キャラクターの顔なんて特に
「そういう表情」だから面白いが、そういう表情
は言葉で説明すると、死ぬほど時間が掛かるし
それを伝えたら伝えたで、シラケてしまう。


「目に矢が突き刺さって、舌をべろーんと出して、
髪は逆立って、全身茶色い毛むくじゃらなモンスターが
、傲慢なおばあさんに傅いている」


とか(これは私が考えた)、そんなの読んでも
ギャグなのか、真面目な状況なのか、判断しかねる。
真面目な状況として処理する場合、何故このような
経緯になったのか説明する必要があるが、ギャグ
として扱うなら、「ただいきなり」そういうシーン
を提示すればいい。



その映像が面白いのだ。字面が面白いのではない。
言葉で伝えられるユーモアとは違う。ギャグは
身体を張らないと駄目なのだ。


そういう意味で言うと、「てーきゅう」は身体を
張りまくっている。テニスをしないのに。

休み明け

すっかり御無沙汰をしておりました。
昨日から仕事復帰しております。
16日から20日まで、ちょっぴり遅めのお盆休みを取っておりました。

休み明けはなかなか調子が出ませんね。
今現在で、復帰してから一日半が経過したわけですが、やっと慣れてまいりました。
昨日は電話で相手と話していてもどこか頭がボーっとしていて、まるで仕事が捗りませんでした。
反省。

イメージの先に

物事をイメージしていく過程を一つの線にした時、時間の長短に限らず最終地点で大抵の人間はそれを具現化させたくなるのではないかと思う。
イメージだけでは満足することが出来ない、ある意味では悲しい生き物なのだ。
ただし、イメージした内容が大きければ大きいほど、現状の自分よりかけ離れればかけ離れるほどに具現化の実現性は望みの薄いものになってしまうのもまた事実である。
これはもうどうしようもないことである。
それ故に、人間は他者に夢を託す。

スターやアイドルといった祭られた存在がソレである。

例えば、スポーツ選手。
前回の記事までの流れで高校野球に触れていたのでプロ野球選手を例に挙げるが…テレビで試合を見るだけの人でも一度位はプロ野球選手などに憧れを持ったはずである。
しかし、現実に目を向けると自分にはそんな才能が無いことに気付いてしまう。
そのためにプロ野球選手に自分のイメージを重ね、応援し、時には野次を飛ばしたり、励ましたりしてしまうのではないか。

続くイメージ

外では漸く蝉が鳴き始めている。住んでいる地域では
ついこの間まで冷夏と言っても良い日々が続いていたが、
打って変わっていかにも『夏』といった暑さが外を
覆っている。


遠く離れた甲子園では球児たちが汗を流しながら必死に
プレイしている。彼等の精悍な顔つきは真似しようと
思って出来るものではない。その必死さにもはや年齢は
関係ないのだろう。





ぼんやりと、この町も、あの球場も、『夏』という
同じイメージで繋がっているように感じた。



実際には、この町と、あの球場は陸続きで、それどころか
日本の全体で同じような気候になっているに過ぎない。
だが少なくとも、そこに住む人は同じような現象を目撃し
、身に受けているという意味で共通なのだ。



だからだろう。イメージが続くのは。

年上の高校生

高校球児が永遠に年上に見える。
それは自分がまだまだ若く見えるとかそういったことではなくて、もし自分があの場所にいたら彼らほど堂々とプレー出来ないという思いからだ。
無論、彼らは野球が上手い。
とりわけ、甲子園に出場するような選手たちは各県の代表であり、もしかしたらプロ入りするような逸材たちも中にはいることだろう。
だから私より堂々とプレーしていることは当たり前のことといえば当たり前のことなのだが。

サラリーマンとしてくすぶっている自分より、高校生らしい正々堂々としたプレーで日本中を元気づけている彼らの方がどれほど世の中の役に立っているだろうか。
そう思う度に
『年下に見えねぇなぁ…』
と思っている。

もう一つ大事なこと。
私は野球未経験者です。
知識だけは一丁前にあるのですが。

考えがまとまらない…

自分の言いたいことをH君が全て言ってくれた。
自分の頭の中にある考えを実際にアウトプットして他者に伝えられるような形に直すということは非常に困難である。
人間のこういった部分はある種まだまだ前時代的で、思っていることは口にするなり、何らかの形で表現するしか自分以外の人間に伝えることは出来ない(たまに阿吽の呼吸で物事を進める夫婦やコンビが存在するが、これらは希少な例であろう)。
21世紀になったとはいえ車はまだまだ空を飛ぶことは無いだろうし、ある人物の考えていることをアウトプットせずに他者に瞬時に飛ばすなんてことも実現しそうにない。だから人間は一見無駄で不毛なように思える会議や集まりなどを行い、意思の確認をする。

都合の良い時ばかりこの言葉を使っている気がするが、敢えて言わせてもらおう。
『持つべきものは友人である』と。

有限のみんな

O君の言うように、いわゆる「みんな」が
大多数、マジョリティーという意味に
とられる時、「みんな」は全ての人と
いう内容を失わせる。


大多数の者にとってしか真実ではない
事を真実というのは違っている。必ず
少数派も居る。少数派にすら認め
られる大多数の真実、大多数の人すら
認める少数派の真実、というものが
ある。そういう真実については、何を
言うまでもなく認めているのだ。


真実については、大多数が認めなければ
真実でないとか、少数派も認めなければ
真実ではないとか、そう言う事は関係
なく、まだ認められてはいないが真実という
事もあるだろう。


まだ認められていない、分っていない事
について、既に仮説が出そろっている
のかすら分からない。誰も発見していない
事はあるかも知れない。


「みんな」も、「全ての人」でも、
実際上は「有限」である。


それで何となく、「あっ」と思えたなら
それで良い。

あじぇんだ

管理人O
特技:論点のすり替え

上司には『屁理屈を言って、論点をすり替えるな』と注意されることが度々ある私。
あえてすり替えてみたい。

『みんな』について、管理人H君は語ってくれた。
各々が意識できる者を総まとめにした最大集合であると定義したが、ここで取扱いに困るのが、『みんなの党』である。
管理人H君の定義が正しければ、『みんな』とは大多数を占めるべきものであるのだが、先述の『みんなの党』はどうなのか?
私のような小市民にとって最も分かりやすい指標でもある最新の政党支持率を見てみよう。
2013年7月の政党支持率、『みんなの党』は1.7%である。

『そういう意味の“みんな”じゃねぇよ』
という批判の声が挙がってくるのは分かっている。
恐らく『みんなのためになるような政治を掲げる政党ですよ』という意味なんだと思うが、それにしても“みんな”に支持をされているとは言えない。

別に『みんなの党』が嫌いなわけではないし、個人的には一番応援したい政党だ。
ここで『みんなの党』の名誉のために申し上げるが、先の政党支持率においてはいわゆる“無党派層”が約6割を占めている現状を忘れてはならない。
今や選挙は『無党派層をいかに取り込めるか』が勝負のカギになっている。

つまり、現段階では『無党派層』が“みんな”であり、政治に関心を持つ又は支持している政党がある者の方が少数という事態に陥っている。



何が言いたいかというと、自分でも良く分かっていない。
これこそ自分なりの『ノリ』である。

H君、すり替えてごめんなさい。

はて

本来なら、「みんな」とは各々が
意識できる者を総まとめにした
最大集合である。


自分しか意識できない者は、「みんな」
という語で、自分のみを意識する。
それも考慮に入れたなら、「みんな」
は正しく機能する。


しかし、それが実際に出来る者は
居るのだろうか?厳密に言えば、
自分すら意識できない者が居たら
「みんな」は「みんな」ではない。


それでも、自分すら意識できない者
を意識している者がいないわけではなく、
その場合は、他者がその人の考えを
分っている、代弁できるという奇妙な
状況になる。

みん

まるで中二病てきな発想になりかねない
「空気」を読む読まないの話はともかく
としても、大多数の力『みんなの意見』
に屈するという事は往々にしてある。起り得る。


『みんなの意見』は、「みんな」を前提する。


「みんな」がないところで「みんな」を振りかざしても
意味がないように、「みんな」が前提される
ところでしか『みんなの意見』は効力を
持たないのに、先に『みんなの意見』として
何かを振りかざした瞬間から、逆に「みんな」
が遡及的に想定されるという現象が起こっては
いないだろうか?



「みんな」とは共同幻想なのだ。


と言おうとしても、「共同」と言っているこちらも
既に何らかの集団を暗に認めてしまっている。正しくは
ある人が「みんな」と言った瞬間に、別の人にも
「みんな」が其々思い描かれるといった事態が
引き起こされるのだ。それぞれが思い描く
「みんな」像は異なっているが、名指される仕方
は同じであるが故に、「みんな」という語に
よって、つまり大体の場合、『意識できる全ての
人』というものが、恐らく、意識している者
同士で意識されるようになる。各々が
意識できる全ての人を意識すればそこにどんな
状況が生まれるか?


意識できる者同士の、『最小集団』になりは
しないか?ある人は万人にとって意識されている
として、その人が必ずしも万人を意識していない
ような事がある場合、その人が「意識出来る者」
認めたものが「みんな」なのである。


その人が意識できる限界というものを考慮して
いない場合、「みんな」がまるきり「全ての人」
と同義に扱われるとき、、、悲劇は


『空気』

『ノリ』について触れられたならば、私は『空気』で返そう。
あくまでも個人的見解であるが、『空気』は『ノリ』の上位互換、そして超越しうる力を持ったものだと私は考えている。

『ノリ』により、その場に居合わせた複数の人間の行動及び言論が従来よりも効率良く且つ円滑に行われる。
そしてその『ノリ』により生み出されたものが『空気』である。

この『空気』が実は恐ろしい存在でもある。

例えば、その場の『空気』を読むことが出来ない、いわゆる“KY”が出現したならば、その人物は社会的抹殺を受けるに等しい冷やかな視線を浴びせられ、その集団からは排除されてしまう。
『空気』は、『ノリ』を超越しうる存在であり、その場にいる大多数の人間が『カラスの色は白である』と決めたらならば、カラスの色は白なのである。
例え、その大多数の意見が間違ってたとしても、『空気』は正しい発現をすることを許してはくれない。

不良品のスマホ

スマホがおかしい。
元々不具合が多い機種として有名らしい(しかも購入してから気付いた)、私のRegzaフォン。
毎日充電完了の状態で出勤しるわけであるが、仕事中ほとんど触れてもいないのに昼頃には電池切れ。
携帯の充電器で再充電することが昼休みの日課となっている。
ここで補足であるが、その勤務中は全てのアプリは終了させているし、ワイファイやGPSも切っている。
よく言われる『電池がもたない人によくありがちなミス』的なものは何一つ犯していない。

『そうだ、これは電池の寿命なんじゃないか?』
そう考え、ドコモショップに持ち込むが、そこでは特に異常なし。
最早、病院に行くと急に元気になる子どもと同じである。

別にケータイが無いと不安なわけではないが、妻に定期的に連絡を入れなければ疑いを抱かれてしまう悲しい身分としては『電池切れ』などという言い訳は通じはしない。

機種代24回払いの終了まであと4カ月。
機種変更まで長い…。
プロフィール

二人の管理人

Author:二人の管理人
ブログには珍しく二人の管理人で更新してゆくブログです。

二本松のこと、競馬のこと、これから手探りで何かを
やってゆこうと思っています。




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