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スローペースで、二人で出来る事を模索しながら。二本松、競馬、などなど。

仕事中も

酒も入っているが、気力を使い果たしたようなフワフワ感がある。寒さとか、スケジュール的な事が微妙に精神に影響して本当に一息つく時が待ち遠しくなる。それこそ無理ではないけれど、結構疲労感のある作業をしているかも知れない。


そんな時でもほんの少し、ほとんど自然なレベルでモチベーションを維持するように気持ちを動かしてみると、最善を尽くしているからか妙な満足感がある。散々何かに抵抗してきたけれど普段の生活でも無視できないレベルでよい効果が現れているんじゃないだろうか。


現実での試行錯誤自体が楽しくなってくると、自然に世界のことにも関心が高まる。やってみてますます実感する人間存在の器用さと不器用さ、とでも言えるだろうか。道具の価値もそこから生まれているし、道具があるから変わってくる事もある。


自分でも驚くほど順応しているような気がするけれど、未だに仕事というよりは「作業」という感覚の方が大きい。むしろ作業だと思うから坦々とこなせるというか。自分の働きがどう評価されているのか徐々に感じ取れてくると、どう動いたらいいのか分かってくる。


作業しつつも頭の片隅に「本日の抵抗」というような内容で意識されている「意識的な感覚」がある。分かりやすく言うと「ちょっとした余力」で、そういうちょっとした意識的な思考によってどのくらい微妙に変化させられるかという実験というか、とにかく工夫している。


例えばほんのすこしのアイディアをとっさにメモする、支障がない程度で、というような事も積み重なってゆけばバカにできない。仕事に微妙に関係している事だろうから、その範囲においては完全に余計ではないとは思う。あとは合間の時間で「この一続きの活動の中にある」という感覚でその時を見つめ直してみたりすると何かを思い出せる。モチベーションと体調の「管理」によって見うしなわないで済むのかも知れない。



経験を活かすということについていえば、自覚的でしかも記憶しているという事は重要だ。仕事の中にも「新しい何か」で語れる事がある。あと少し何かが言えそうである。

違う心境

いつの間にかこれまでとは違う心境になっている事に気付く。妙に仕事のことを
考えていたりして、しかもそれがなんだか普通のことで別におかしくはないとい
う感覚。とは言いつつ、そうなったらそうなったで何かを持て余しているのは明
らかで、どこかに何かを忘れてやしないかと思ってしまう。


『言葉で説明するのは無理だな』


とざっくりと判断する。何かしら「無理なもの」に対しての判断と同様に扱うな
らそれ以上は出てこない。何しろ『無理なものはなるべく無くしてゆこう』とし
ているのだから当の本人がそこで無理をしていたってしょうがない、それも道理
である。



ただし、無理にはならない『難しいこと』については挑んでみるのは良いのだろう
。ならば難しいけれど伝えられる事は何か?すぐには説明できないが、続けつつ迫って行くしかないだろうなと思う。

作る過程

「曲を作るぞ!」と目標を立てて、まずは何よりその気持ちのキープが必要と
考えている時点で方法論がだいぶ確立されている。集中するとどこかで息抜き
が必要となるし、時間がある休みの日に気持ちを高めてゆくとすると自分です
ることとはいえ「管理」が重要になってくる。


特にこの頃、過去の蓄積でほとんど無意識に判断している部分が「今」動かそ
うとしているところと絡み合っているのを感じるので、じっくり取り組むこと
を重視しているかもしれない。考えてみれば過去に自分がずっと続けられるよ
うにと願ったことを文章なり作品なりにしてきたので、多分もう判断する前に
決めてしまっていることが結構あるんじゃないかと思う。そうなるとその決定
を尊重しつつ、それでいて『最新』の自分の判断も捨てがたいと思うし、微妙
な迷いの線がそれ自体として興味深いというか。



中長期的な取り組みについてはもう管理を徹底するしかない。やらなきゃならな
いこと、やりたいことがあるし、当然疲労もでてくる。上手くイメージを想起さ
せる方法もツール、機材、その他諸々の工夫が考えられる。それこそ創作とリビ
ドーの関係についても考慮しなければモチベーションは高まってゆかない。



様々な配分を意識的に自分の望む方に活かしてゆく、イメージを何かにして残して
おく。そこに「伝えたい事」があって、なんとか出来上がってくるという手ごたえ
はある。かと言って、そういう精神状態が特殊的になり過ぎてもいけないというの
か、そもそも伝えたいことがそんなに特殊でもないというか…。色々なことに目が
届いているという事も大事なんじゃないかと思う。



そのあたりが難しいところだと思っている。

音楽だから

平日の休日にカラオケ。もはや習慣になっているフシがあるけれど実際歌っていると毎回なにかの発見がある。気持ちがのった曲はかなり理想に近いレベルで歌えていて、気持ちがのるということから気づく自分の感情というのもその一つだ。


数日前からエネルギッシュで情熱的な部分を表現したいと思い始めているがそれはどういうことに向かっている感情なのか、はっきりとは掴めてない。


自作曲とか自作の小説は自分にとっての限界地点で作っているような気がする。平面上の図形のように色んな方向性で引っ張ったところを結んで行くように「領域」を考えるなら、「前に進みたい」という気持ちと「誰かに伝えたい」という気持ちのピークがそれぞれ作品になっていて、「今」がどちらに接近しているのか、聴き直しながら確かめていたりする。



なんというかいざ見つめてみればどうにも誤魔化しきれない悶えがあって、何かに対して「違う」と言いたくなっている。というか、言い尽くせないのは確かで、音楽だから可能なものをそこに感じる。


読む本

平家物語を読み通す…は語弊があるから一通り読み終えた。素読よりは意味を確認しな
がら読んだので「読んだ」と言っていいと思う。


ただ感想を述べれるほど深く読んだかというとかなり疑問で、またいつか読み直したく
なる時がくるかもなと思っている。だとしても読み通すことはかなりの意志を要する。



一日経って、次に読む本の優先順位を考え始めている。管理人Oくんこと浅見ヨシヒロく
んも一度に複数の本を読むらしいのだが、私も現在進行形で4冊ほど相手にしていて段々
勉強のために読む本が増えていっている。小説も一時期読まなくなっていったのだが自分
で創作をしているうちに、『個々の知識』というよりは総合的な知…


「〇〇は△△である」


というように要約できる何かしらの事実…真理と思われる『情報』ないし『情報性』を
物語自体で感得することもあり得るんじゃないかなと思うと、エンターテインメイント
に拘らず読んでみたいなと思い直すようになっている。それを再確認したのが競馬…
女性ジョッキーの物語である


『風の向こうへ駆け抜けろ』


という小説である。虚構ではあるが現実の何かを確かに抜き取っていて、容易に小説
のもとになった事実が想像できる。読んでいて、


<こういうことはそのままではないにしろ、何らかの意味で同じことはあるんだろうな…>


と感じる。そこに透けている現実を感じるというか、予感させるというか。そもそも平素、
仕事とかいろんな状況があるけれど対応してゆくうえで常に完璧な理解ではなくとも雰囲
気とか、流れとか、『大まかな理解』で済むこともある。そういう場合に、その雰囲気を
補うものとして、シミュレーション的なものの価値は確かにある。



大まかな理解というのはそれこそ先ほど述べた、


「〇〇は△△である」


というような命題の連なり…が同時に真である状況を思い描けるという事でもある。小説
を「同時に真である」という状況を描いているうえで、それが本当の事として実感される
というような『情報性』を持っている創作のことだとすると、個別の事実についての知で
はない『了解』はそれによって促されるのだろう。



それがある意味で「総合的な知」なのかもしれないなと思う。平家物語にしても、物語る
事によって事実の寄せ集め以上のものにはなるんだろう。もちろん、厳密に、厳格に考え
ていった場合には整合性とか気になってくるところだ。ただ、そういうレベルで考える意
識とは別の意識が


「ふ~ん、そんな感じで歴史が動いたんだなぁ」


ともう説き伏せられてしまっていて、これだけ情報の溢れた時代だと少しは考え方に広が
りが出来たんじゃないかと思ったりした。これからの読書もそのあたりのことを意識しなが
ら本を選ぼうかなというところである。
プロフィール

二人の管理人

Author:二人の管理人
ブログには珍しく二人の管理人で更新してゆくブログです。

二本松のこと、競馬のこと、これから手探りで何かを
やってゆこうと思っています。




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