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スローペースで、二人で出来る事を模索しながら。二本松、競馬、などなど。

ここまで

どうやら「ちょっと特別な」は限界に来ている。総合的に考えていって、「無理」なものになっている。その判断自体も安易なものではなくて、きちっと判断できている意識で行なっているという事が「これでいいのだ」という安心を与えている。


なんにせよ判断が冷静に出来なければ上手く整えて行くことは不能だろう。今求められているのが冷静な判断で、そこを封じる事でしか続かないのだとすると、というロジックがある。
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予測に向けて

『難しい』。どういうニュースを見ていても『難しさ』を感じてしまう。
どうあっても不幸なニュースは『厳しさ』を意識させるし、その厳しさ
の中でそれぞれが出来る事を求められているように感じると、少し困っ
てしまう。


どうあっても成長や上達が求められている、というかそういう風にして
いかないとどんどん大変になるというのは事実なのかも知れない。自分
のどうあっても物理的に、医学的に難しいだろうというような条件を条
件として認めれば認めるほどに現状で既に最善を出していると思えてし
まう。求められているのは『最善』を越えてゆく『最善』を出せる人間
になる事のような気さえする。



理屈としてはその通りなのだろうと思う。9割9分のパフォーマンスで
はなく9割9分9厘の精度でのパフォーマンスが出来るようになること
。色々気を配りつつ、こなしていけるようになること。



そこには明らかに『余裕』と『理論』がなければ改善らしい改善はない
だろうと思う。その『理論』を自分なりに見つけてゆく事自体も試行錯
誤が必要であって、すぐには出来ない。



幸か不幸か考えているうちに『分析』は出来るし、捉えにくい現状を把
握する表現は浮かんでくる。おそらくは『9厘』レベルのパフォーマン
スは『余裕をもって出来る事』であるだろうと予感している。色々なこ
とに気を配りつつ出来るレベルが『9厘』くらいの精度なのだなと分か
ってはいるのだが、仕事中は一日に10分くらいあればいい方だなと思
う。作業や時間に追われているとそういう風に出来る、確率、頻度も少
なくなってしまう。



いつの間にやら創作もそのレベルを課されているような感覚になってい
る。『9厘』のレベルは確率的にも『稀』であるのは確かだ。何らかの
条件を揃えて確率を上げてゆく事は出来るのかも知れない。




その点については『予測』が鍵になるなと感じる。ぼんやりとした『予
期』ではなく、データに基づいた『予測』である程度確証をもって判断
するようにしてゆく事で『限定される』可能性があると感じる。『勉強
』する事でもっと予期を『予測』のレベルに具体化してゆくと、必要な
事が見つかってゆくのだろうと思う。或いは「それはしなくていい」と
いう消極的な意味での限定が得られるかも知れない。




自分らしい努力でいえば、予測に関わる『勉強』を続けることは最善の
ように思う。『9厘』のパフォーマンスも、予測できるからこそ対応で
きる事があって、その上で(余裕が出て)可能になってゆくという理屈
が成り立つ。

安定と安心

このごろ「9割9分」の安定感と「9割9分9厘」の安心感を区別しているような気がする。安定はしているものの、それは自分の能力でなんとかできるという事を込みで大丈夫だと判断する時と、状況的に安心できる時が違うなと意識され始めたという風に説明出来ると思う。


多分自分の持っている情報とか経験的に9厘のところに行けるんじゃないかという予感がある。その9厘の領域を感じさせるような作品が自分にも何かの証拠として欲しいと感じる。


感覚的な事のようで、数理的な事のようで。

書いている

暑さもあるだろう、異様に身体が動かない。気持ち、念があっても動いて
ゆかない状況というのはある。そういう意味での難しさは普段感じている
難しさとは毛色が違う。「環境」と一口にいっても、地球規模の大きな枠
で変動している事象が関わってくる『環境』の中で僅かでもやり易い状態
に持ってゆく事は意外と難しい。



こう「大きな事」に対して何かを働きかけているような感覚にも似ている
のかも知れない。自分達の意図としては「精度」、「クオリティー」を上
げてゆくという目標でやっているけれど、つまりそれが実現するならば価
値としてはやはり比較的大きな事を動かすポテンシャルを持っているとい
う事であって、それこそそれによって誰かの気分が変わるくらいのものな
らばやはりそれも『動かしている』という事なのかも知れない。



何だかんだで『動かす』にはそれ相応の『力』が必要であるというのは確か
であるような気もする。じゃあ自分でこの動きにくさを感じつつも『動いて
ゆく』というのはある意味で「力」の現れなのだと思うし、それが文字情報
になっているというのは一つの成果なのだろうと思う。



動かす『仕掛け』は世に様々多々あるけれど、実際に動くときには自分で『
動かすぞ』という気持ちがなければ動いてゆかない、そういう理屈だってあ
るんじゃないかと思えてならない。



自分で何かを見出して、そして動く理由が出来たと感じて動く。そういう過
程がなくても動けるだろうか?多分、動ける部分はあるけれど、こういう風
に書くことに向けて『手』を動かすようには出来ないんじゃないだろうか。
そして活動にはどうあってもそういう風に『手』を動かしてゆかないと進め
ていけない事情もある。



ギターを弾くにしても『手』の動きは凄まじく重要で、そこに意志が宿って
いるようでもある。精度を上げる場合にどうしても『手』への神経が必要に
なってくる。そこに対して何が出来るのか、まるで言い聞かせるように書い
ている。

ここからだ

明日友人Kとカラオケに行く予定。前日ではあるが既にテンションが
上がっている。『カラオケ』というと気軽な感じが漂うけれど、自分
たちにとってのカラオケは特別な意味合いがある。歌で何かを伝え合
いたい、或いはそのテンションの自分で歌いたい、色んな想いがあっ
てそこに集合している。


高校時代は毎週のように出掛けていたけれど、当時とは音楽の好みも
変ってきているし、歌える曲も違う。今の心境で歌いたい曲は何だろ
うかと明日の事を想像してみる。



伝えたい事の多くはすでに何らかのカタチにしている。前ほど表現し
きれていないと感じていることはないけれど、「自分」として出来る
ことの可能性を追求してみるのがいいような気がする。



正直『念』は変化している。誰に何を伝えたいのか、いや、今という
時代に自分から何を出してゆけばいいのか、今の地点に立ってみての
『分からなさ』が内容になっている。




「ない」と言ってしまえばそれまで。「ない」とは言いたくないとい
う気持ちがある、そしてそれが大きな意味を持つのだろう。何故「な
い」と言いたくないのか、実際気持ちがあるからだけれど、その理由
が実際非常に内容豊かであることは確かである。言ってしまえばもう
何から何まで非常識的でもあってその部分を「無い」事にすれば内容
はないけれど、今はその「非常識」ともいえる部分を語りだす段なの
かも知れず、つまりそれはもう表面的な穏やかさとは違う何かを出す
必要があるという事なのだ。




自分は言うほど常識的な事をしてきたわけではない。仮に『夢』を追
う部分が本気であるのならば、常識に囚われていてはいけない領域に
来ている。むしろ困難の度合いが非常識なところからそこに応じるよ
うに出てくる自分があって、もうそれを封じる必要もないだろう。



ここからだ。
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二人の管理人

Author:二人の管理人
ブログには珍しく二人の管理人で更新してゆくブログです。

二本松のこと、競馬のこと、これから手探りで何かを
やってゆこうと思っています。




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