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スローペースで、二人で出来る事を模索しながら。二本松、競馬、などなど。

メモと言葉

確かな言葉が浮かんでくるとき、それは一つの決定を意味するのだろう。どうあっても真実にそう思った事。思った事を何度も確かめたいからだろうか、気付くと僕は手帳に書き込んでいる。


『確かに、ここにある。それが何かで』


多分後から読み返す自分にすら伝えられない、そんな「何か」としか呼べないものが確かに今の僕にはある。「ヒカリ」と呼んでしまえばそうなのかも知れないし、熱と言えばそうなのかも知れない。例えばミュージシャンが声をからすように伝えているものがそれと同じ類のもの…あるいは同じものだとして、でも自分は持て余してしまう…というどうにもならなさがある。


軽く口を付けたコーンポタージュの缶にそこはかとない心強さを感じつつ、休憩時のその行き迷っている視線を窓に向ける。正解であると同時に間違いでもあるそんな生き方をしているかもななどと思えている最近の心境は殆ど分析不能で、大まかに共通する誰かの言葉に共感して、というか共感したことにしている連続とも言えそう。だから誰かに伝えた時には同じものになっているんだろうし、それでも悪くはない。



「でも「何か」があるのは確かで、それが…」
何度言葉にしても言葉にしたことにならない、そんな内容をこの頃ではどこに探していているのだろうかと思う事がある。代弁者はそう都合よくは見つからず、伝えられそうな相手ももしかしたら見つからないままなのかも知れない。


その辺りで無理をしたんだよな、と今更ながら思う。分かってもらいたくて、一生懸命伝え方を考えて、ある程度は上手く行って、でも今みたいに自分でも何なのか分からないものになってしまったらもう扱いようがない。


僕はもう一度メモを見る。


『確かに、ここにある。それが何かで』


ああ、これが「ヒカリ」を感じさせるだろうか?


<どうにもなんねえんだよな、どうしろっての>


本当にどうにもならない。ここまでの熱が急激に冷めてゆくのを感じる。そう気付いて「ああ、熱なのは確かだったんだな」と冷静に分析している。それはそうだとしてどんな熱なんだという、不思議な思考が次にやってくる。


勿論それはコーンポタージュの熱じゃない。どんな熱かもそうだけれど、何でそんな熱がやってきたのか、というその理由を知りたくなる。実はそれは非常に単純で、何か熱中できるような凄いもののような気がしたからなのだ。


実際、何か凄いものだと思ったのは確かなのだろう。それは嘘だとは思っていない。けれど今またしても本当だと思えているのだろうか?


疑問には違いない。不思議なほどに、何でもない事。


そうこうしているうちに休憩時間は終わってしまう。底に残ったコーンをポンポンと喉に落としておかないといけないような気がしてしまうのは何だか癪だけれど、本当にそうなんだよなと実感する。同じように自分の中に残しているものがないように、今一度メモに言葉を加える。


『たぶん』


その言葉はコクのあるスープのようにじわじわと僕に染み渡る。
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喩えようもなく

喩えようもなく微妙な心境を誰かと分かち合うような、そんな時間が確かにこの世界にあったのだと自分に言い聞かせるような、その繰り返し。


今朝のトーストは清々しいほどに標準的で、食べたことが印象に残るのかと言われるとそれは難しい要求だろうと素直に諦めるしかないとさえ思われる。そう思う自分は取りも直さずあらゆることを受け入れているようであって、ただ『最終確認』として、「これは事実です」と答弁するまでの猶予だけが与えられているというような在り方なのかも知れない。世界は思のほか無駄はない、というよりも使えるものは何でも使うという精神で在りもので何とか凌いでいるのだから理屈から言って無駄はないと言っても悪くはない。ただ、最後の一口を食べ終わった時のなんとも言えない微妙な気持ちすら放置されず取り沙汰されるような世界なら、それはそれで息苦しい。



分かち合えない事は一つの個性で、共感されないという事はそれだけ自分というものを意識する瞬間の為に必要ですらあって、些末なことだから記す必要もない。



仕事がたまたま午後からになったこの日に、僕は持て余しながら珍しく考え事をしている。いや、常に時間が足りないとさえ感じている自分にそんな持て余すような時間が与えられてしまったからつい考えてしまうのだろう。改めて思う、ややこしいだけの己。誰かの意見に同調しているようで、実際同調する以外の方法を知らないだけなのかも知れない。



語るほどのものはないのに、そんなものを意識してしまうであろう自分。愚かとも、素朴とも違う、誤差の範囲で平均的な姿。それなのに、どこかでそれが異様なものにさえ思えている自分。



何故そう思うのだろう。薄々その正体に気付き始めている。僕は未だに何かを信じているのだ。言うなればそれは誰かにとって「幻想」でしかないもので、いつの間にか「幻想」として扱われてしまうものだ。虚実入り混じるネット上の意見にすら攪乱される、とてもシンプルな命題。それなのに、僕の中では「幻想」と言うのが躊躇われるという、矛盾した事実とはなり得ていない事。




ありきたりな事ですら特別な何かになってしまうそんな事が、そしてそんな事を意識させる情報が、自分の中にはあるのだろう。




だからと言って何かが変わるというわけではない。ただごくまれに、その微妙さまで誰かに伝えられたような気がする時がある。僕がそこで伝えるという事にはどんな意味を持ちうるのだろう。それが何なのだろう。



だだもしかしたらそれは記憶の残滓として、もはや何を伝えているのかも不明なままに何処かに留まってゆくのかも知れない。



ただ幻想が続いている。いつからその幻想が始まったのかさえわからないままに。



時計は静かに時を刻む。そしていつもの通り、僕は準備を始める。

心がどこかに飛ぶのなら

心がどこかに飛ぶのなら、続いてゆく道の向こうを見てきたいというそんなありふれた願望なのかも知れない。



酷暑とはいいつつも、冷房を調節したり塩分を多めに摂ったり、自分なりに必要なことを必要なタイミングで行えているせいか、満更でもない心境で休日を過ごせている。時折思い出したかのように風も吹き抜けるし、今はなんだかいつかの夏を思い出している。



熱に浮かされるように世界が煌めくように願ったあの日の事は今でも印象に残っている。駅から歩いて帰って来ただけの事だったが、久々に再開した友人に何となく話してみたら、


「それは夏の本質かも知れないな」


と意味ありげな言葉を伝えてくれた。お互い学生時代に自転車をこいで通った経験があるからか、ノスタルジーの性感帯は似通ったものだったのかも知れない。あれから何年か過ぎて、友人には子供ができた。自分はどこか煮え切らないまま歳を重ね、煮え切らないものはやっぱり煮え切らないままにあるのが必然なんじゃないかとさえ思えてくるのも否定できない。



夏の一時は妙に記憶に残る。青春映画で見たことがあるのかないのか分からないシーンが脳裏に浮かんで、例えば川沿いで夕立に遭ってそろぞろと散ってゆく若者がこの世のどこかには居るんだろうなと信じて疑わない。その物語の中で今の自分はどういう位置にあって、どういう役割を演じるのか、それこそ演じずに演じるのか…なんてことを考えていると『自分』というものが見えてくるような気がする。



幼い顔立ちであるのが特徴の自分でも、仕事に疲れて帰って来た夜に鏡に映すと『目』が自分に何かを訴えかけているようにも見えてくる。それはあたかも



『もうお前は十分やっただろう。心配すんな、みんなそんなもんだ』


とでも言いたげな目で、多分自分はいつのころからかそういう目をするようになっているのだと思う。言葉尻を捉えて反論するのも面倒なだけという、悟りと気づきの間くらいの成長とでもいうか、とにもかくにも煩わしさからは段々と解放されているような気がする。職場でそれなりに任されるようになって、じゃあこの先何をそこで求めてゆくのか、段々と考えなくてはならなくなってきたようでもある。



スマホの正面カメラを利用して自分の目を見る。少し日焼けした顔に二つあるそのどちらかに、いわゆる『光』はあるのだろうか。あるのはただ追憶だけなのか?




そのタイミングで「ピンポーン」と鳴る。慌てて玄関まで向かってさっとドアを開ける。



「よう」



そこには例の友人が立っている。別に約束をしていたわけではないので少し驚きつつ、とりあえず中に入るように勧める。すると友人は、


「いや、ちょっと今日はこっちで用事あるついでに寄っただけだから」


と告げた。そうして玄関先で軽く近況報告と、これからの予定について確認し合った。


「まあ行き着くところはこういう風になるんだろうなとは思ってたけど、今年は結構きつそうだぞ。熱中症対策はしっかりしておこうぜ」


友人のその言葉に改めて自分のあの時の言葉が無茶ぶりだったかに気付かされる。それはやはり去年の夏だった。


『サイクリング…っていうか『ロードバイク』を買って、地元の色んな所を走ってみないか?そしてそれを動画にするんだ』


あの時の少年の姿からインスピレーションを受けたというのなら安直すぎるけれど、風を切って走ってみたいという気持ちはどこかに眠っていたのだと思う。自分に出来て、今だから出来る事、それを考えていったら自然にそこに行きついた。友人も何かこちらの熱に当てられて、結局今では月一くらいでその『サイクリング』を敢行している。



アップロードする動画は自己満足でしかないけれど、地元の風景を残しておきたいという気持ちもどこかにあったのかも知れない、なかなかいい雰囲気が出ていて二桁の視聴回数は得られるようだ。


「まあ夏のピークが過ぎて、台風の様子を睨みつつ、今度は懐かしい風景を探してみるとするか」



別れ際の言葉が頼もしい。見送って一人玄関でなんとなく立ち尽くしていると思い出したかのように蝉がミーンミーンと鳴き始めた。ありふれた光景だけれど、ちょっとだけまばゆいような気もする。

通り過ぎてゆく

時とともに薄らいでゆく。『そんな単純なものじゃない』と思っていたけれど。この心境はどう言い表すべきなのだろう。風に身を委ねるように、僕は今生きている。いつか見た景色はどこかに眠っていて、ひょんな切っ掛けで呼び戻されるけれど、本当にそこに自分が居たことを自分自身に伝えるような何かを必死に紡いでいるようにも感じる。


嘘などどこにもない。大変だと思っていたことが面白くなってきてしまうのが成長だとしたらある時の僕は僕じゃないし、それでもやはり僕の言葉に僕は責任を持たなくてはならない。



朝目覚めて歯を磨いているうちにふと誰かの言った事を思い出した。父だったか、それとも友人だったか、はてまたテレビの内容をぼんやり覚えていただけかも知れないがそれは僕にとって天啓のようでもあり、当たり前のことを再確認して普通に受け入れているだけのようでもあった。口を漱いで次の準備をする為に移動する。飼っている猫はいかにも気怠そうにリビングで僕を待ち受けていて、それが何故だか頼もしいと感じてしまった。


<君はどこからどこまで知っているんだい?>


知らなくても生きて行けるのだろう。けれど知らないと人間は困るのだろう。同じように知らないと困るように出来ている僕は新聞に目を通す。何のことは無い、知っておいた方がいいから知る。知らないほうがいいというのなら、昔みたいに抵抗しないで知らないままにする位にはなっている。知らなくてもいい事があるのは猫を見れば一目瞭然だ。



理想とは違う今。誰かにとっては理想の今だとしても、何かを求めてしまうのは仕方がない。それでも、もっと賢いやり方があるんじゃないかといつも誰かに尋ねてしまいたくなる。答えようのない質問を誰かにぶつけて、何か発展があるのかどうか。そんな事よりも美味しいものを食べていればそれでいいのかも知れない。じゃあこの意識は何なのだと、何のためにあるのだと僕は尋ねたくなる。



半ば無意識に猫の頭を撫でて、素直に受け入れている様子を眺めてこれで良いんだろうなと少し納得する。多くの事は伏せられている。恋に落ちた詩人のように、或いは恋に落ちて詩人になってしまった人のように今感じる気持ちを言葉にしてみたくなる。



「変ってゆくものは…」



続く言葉を一人考える。出掛けるまでそれほど時間があるわけではないけれど、なんとなく後で思い出せるようにはしていたいこの心境。こんな心境で過ごせるのなら、大抵の事は「仕方のない事だ」と割り切って穏やかに日々を過ごせるだろう。だけどこの謎めいた心地はそう長く続くものでもないだろうなとどこかで気付いている。



外は曇り。だからと言って悪い天気というわけではない。それでも望んでしまうのだろう。そんなことを考えているうちに。

束の間のざわめき

ターコイズのような色合いがなんだか美味しそうに見えるのだとしたら、十中八九チョコミントアイスのせいじゃないかと思う今日この頃。くたびれたTシャツの襟元が妙に気になる。単調に過ぎてゆくのに時間が経てば劣化してゆくなら、気が付くとまた新たに用意しなきゃいけない何かがある。そして新調は思うほど単純じゃない。行きつけだろうと全く同じものが店の棚に並んでいるわけでもない。

「NO MUSIC NO LIFE」

というありきたりなプリントに深い思い入れなんかありはしないのに、その代わりにどんなメッセージが入っていたら馴染むのか、自分にはよく分からない。今年になって初めて食べたチョコミントの味は自分の中の何かを目覚めさせているような気がした。

少し遠出するのも今日はなんとなく苦にならない。車を走らせて20分。普段なら行かないショップの駐車場で財布の中身を気にしながら歩き出す。イメージの中にある『アメリカン』な要素をちりばめたような内装の店で、普段はあまり聞かない洋楽のBGMを新鮮に感じながら服を選び始める。『春物』といいつつ、少し薄手に寄っている品揃えは先を見越したものだろう。全てにおいて『慣れている』所作の店員が、特にこちらを気にしているでもなく坦々と作業を続けている。

そういう様子を見ていると、まるで自分が服を選ぶのも『作業』なのではないかと疑ってしまう。確かに冷めた言い方をすれば劣化すれば取り替える消耗品なのかも知れない。劣化しなくとも時代遅れになれば、流行りが終わってしまえばファッションとしては機能しない布になると考えてもあまり外れすぎてはいない。今着ている「NO MUSIC NO LIFE」に思い入れはないと言いつつも、そこまで冷めた見方をして着ているものでもない。唐突にそう気付いた。


でもそのままそれを着続けるという趣味もない。だが、何かただの布ではない何かであった証があったっていいんじゃないかと思う自分が居た。可能な限り。


<証…か…>


自分の思考の中の不思議な響きのある言葉に思わず身動きを停めてしまう。一瞬自分だけが世界の流れから踏み外してしまったかのような戸惑いを感じてさきほど店員が居たところに目を遣るが、彼は相変わらず迷いなく作業をこなしている。



こういう気分自体、気まぐれというやつなのかもしれない。だとしても仕事とテレビの話題で世間並みに均されている自分にとって、気まぐれという事自体が、そしてそれに唆されること自体が稀であることは間違いない。



その気まぐれから何かが始まってゆくストーリーをぼんやり思い浮かべる。今日これから『運命の出会い』があって、人生が激変してゆくならそれはそれで面白い。現実が…少なくとも自分の人生がそんな具合に動いてゆくものなら、これまでの常識などというものも当てにならないと言われているようなものだろう。




自分でもわかっている。自分に今見えているものは、あながち間違いではないと。それを疑えるほど学んできていないわけではない。世の中で驚かされる出来事があってもそれは何処かで「あり得そうなこと」だと思っていたような気もするし、かと言ってそれを完全に予想できるほど自分は見通せていない。



いつしか淡々としたテンションで服を選び始めている自分。お気に入りになるような服がこの店の中にあるかも知れないけれど、何も無理にそれを探す必要はない。この中にあるものから気に入ったものが手に入れられれば本来はそれでいいのだ。


<それでい…>


『それでいい』と納得させるために反芻しかけたところで思わず目を見張ってしまう。その棚の下段左隅には『NO MUSIC NO LIFE』があったのである。しかもそれは春を意識してなのか、淡い緑色のトレーナーである。それは『チョコミント』の色を思い出させた。



それは出来過ぎた偶然、と呼ぶには相応しくはないのかも知れない。時節的にあり得る『組み合わせ』で、それが偶々この店に置いてあっただけなのだ。けれど、今の自分にとってそれは特別で、少なくとも自分の目を疑うくらいには意外な…ちょっと信じられない事だった。



<『何か』があるのか…?>



思わず分かりもしない『何か』がこの世界にあるような気がして不思議な高揚が訪れるが、その瞬間規則正しい歩行のリズムで後ろを「いらっしゃいませ、失礼します」と通り過ぎていった店員の存在で「おっ」っと思っていつの間にか大したことではないという気持ちになってしまう。だが、



「何を馬鹿なことを」



と自分を窘めるように声にしてみると、それでもそのトレーナーが自分にとってはお気に入りになるだろうなという紛れもない感覚が逆に際立った。



結局それを持ってレジで会計を済ませる。



「ありがとうございます。またお越しくださいませ」


という爽やかな声を背に受けて再び外に出ると、その瞬間ビューっと強い風が吹いた。そういえば昨日のニュースで「春一番が吹いた」とアナウンサーが『満を持して』というテンションで告げたのを思い出した。



<この『NO MUSIC NO LIFE』は今日みたいな日にはちょっと頼りないかもな>



という何とも言えない気持ちで愛車を見据える。そそくさと車に乗り込んで景気づけにカーステレオにBluetoothで接続したスマホの音楽をシャッフルで流してみる。前に友人に勧められて自分でも入れたことを忘れていた若々しいバンドの曲が、なんだか妙に楽しそうに聞こえた。いや、そっくりそのまま「音を楽しんでいた」かもしれない。
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二人の管理人

Author:二人の管理人
ブログには珍しく二人の管理人で更新してゆくブログです。

二本松のこと、競馬のこと、これから手探りで何かを
やってゆこうと思っています。




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